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YASUO KUNIYOSHI A to Z
HISTORY

国吉康雄の来歴

国吉康雄(1889-1953)は20世紀前半、常にニューヨークで注目を集めた具象画家のひとりで、30年以上にわたってニューヨークのアート界に積極的にかかわった芸術家です。国吉は1920年代の幻想的な風景画や、特徴的な女性画。1930年代のユニヴァーサルウーマンと呼ばれる女性像やヌード。1940年代半ばには一連の戦争に関するポスターの習作。晩年は、それまでにない鮮やかな色使いの絵やインク画を精力的に描き始めるなど、様々な作品を残しています。画家としての活動以外にも、美術家の権利を認めるように政府に訴えたり、社会をより良くしようとした社会活動家や、多くの芸術家を育てた教育者としても高く評価されました。

国吉は1889年、岡山市北区出石町で人力車夫の組頭であった宇吉と以登の間に一人息子として生まれました。弘西小学校、内山下高等小学校と経て、1904年に岡山県立工業学校の染料科に入学しますが、1906年に退学し、同年16歳で労働移民として単身アメリカに渡りました。日露戦争終結の翌年のことでした。西海岸の日系コミュニティーに身を寄せ、鉄道車庫の掃除やホテルのボーイ、果実の収穫期には果樹園を渡り歩くなど、お金を稼ぐために様々な仕事に就きながら、ロサンゼルスの公立学校の夜間部に通いはじめます。そこである教師に芸術の才能を見出されて画家を目指すことになります。ロサンゼルスのアカデミックな美術学校で芸術を学んだあと1910年に、ニューヨークへ移ってナショナル・アカデミー・オブ・デザイン、その後インディペンデント・スクール・オブ・アーツに通い、生涯の友人、スチュアート・デイビス(1894年~1964年)にめぐり会いました。 国吉は、今後の画家としての人生を決定づけることになる、アート・スチューデンツ・リーグに1916年に入学し、その後の4年間を学びます。主に指導を受けたのはケネス・ヘイズ・ミラー(1876年~1952年)という画家です。ミラーはヨーロッパの巨匠による歴史的名画に精通していて、それが結果的に国吉にとって大きな意味を持ちました。

1919年、国吉は学友であるキャサリン・シュミットと結婚。キャサリンは画家としての国吉の売り込みに奔走します。また、このころから1924年まで、国吉はアジアのアート、アメリカのフォークアートと現代アートのコレクターであり、美術評論家であったハミルトン・イースト・フィールド(1873年~1922年)の支援で、ニューヨークのアパートとメイン州にあるアトリエを提供されます。こうして、ようやく創作活動に専念できる環境が整った国吉は、1921年にニューヨークのダニエル画廊で初の個展を開催し、新聞や雑誌に絶賛されます。作品は動物や家、人物が描かれた記憶や想像に頼った風景画が多く、この時代の国吉作品の特徴である、近くのものを画面の下に置き、遠くのものを上に配する鳥瞰図と、時間経過をひとつの画面に描くといった日本画的な表現方法を用いて描かれる作品を多く残しました。ですが同時に、このころのアメリカでは排日移民法が成立しており、アジア系住民の帰化は違法となり、アジア系住民と結婚した女性も市民権を失いました。もちろん、国吉と結婚したキャサリンは市民権を失っています。

しかし、国吉の画家としての活動はより、注目を集めるようになっていきます。1922年に結成された新しい展示会組織である「サロンズ・オブ・アメリカ」の委員長に就任。1929年には、ニューヨーク近代美術館の「19人の現代アメリカ画家展」にエドワード・ホッパー(1882年~1967年)やアート・スチューデンツ・リーグの恩師であるケネス・ヘイズ・ミラーらとともに選出されました。そして、二度のヨーロッパ滞在を経て国吉の絵画は劇的な変化を遂げます。1925年にはイタリアと南フランス、1928年から29年には再び、パリを訪れた国吉は、それまで記憶や想像に頼って描いていた創作プロセスを捨て、ジュール・パスキン(1885年~1930年)の助言もあって、実際のモデルを使って絵を描きはじめます。この転換を経て、やがて一世を風靡した「ユニヴァーサル・ウーマン」とよばれる、国吉独特の絵画技法と表現で描かれた一連の女性像が生み出されることになるのです。

1933年になり、国吉は自身がかつて学んだアート・スチューデント・リーグで教授に就任し、1953年までの20年間、この職にありました。パリ滞在直後に、キャサリンと離婚していた国吉は、1935年にサラ・メゾと再婚。1936年には美術家の権利、仕事や保証のための運動を行う団体である「アメリカ美術家会議」主催のシンポジウムで講演をするなど、アメリカの美術家組織で活発な指導者としての仕事に乗り出すことになり、公私ともに充実した日々を送ります。しかし、世界恐慌や第二次世界大戦の勃発を経て、祖国日本とアメリカの緊張状態が悪化の一途をたどった1940年代。国吉の作品には、哲学的な問いかけのようなテーマが含まれるようになります。そして、太平洋戦争により、「敵性外国人」となった国吉は、資産は差し押さえられ、自宅軟禁状態になります。しかし、アメリカへの忠誠と日本の軍国主義への抵抗の意を示すことで、国吉の自由は一部回復しました。国吉は戦中、アメリカの戦費を獲得するために政府が発行した国債の購買を促進させるポスターの下絵や、ラジオ放送で日本に向けて平和を訴える演説をして政府に協力しますが、国吉はひどい鬱に悩まされたりします。「跳び上がろうとする頭のない馬」(1945)や3年もの歳月をかけて制作された大作、「祭りは終わった」(1947)など、強いメッセージが込められた作品を描くようになり、その後、色彩豊かな「こいのぼり」(1950年)などのようにそれまでにない色使いをみせるようになっていきますが、作品に込められたメッセージは、より力強く見る者を惹きつけるようになっていきます。

戦後の国吉は、画家として、教師として、社会活動家として、精力的に活動します。1947年、新しく結成されたアメリカ芸術家組合の初代会長に選ばれ、1951年に退任するまで、1800人の会員を擁するアメリカ最大の芸術団体に育てました。翌1952年にはアメリカの美術館の館長とキュレーターの投票で決まる「現代アメリカの最も優れた10人の画家」の一人として選出され、ホイットニー美術館では「国吉康雄展」が開催されます。生存する画家として初の回顧展を開くというこの栄誉は、アメリカ美術界が贈った、最高の賛辞でした。さらにアートのオリンピックとも呼ばれる「ヴェネチア・ビエンナーレ」のアメリカ代表にエドワードホッパーやスチュアート・デイヴィスらとともに選ばれましたが、体調を崩していた国吉は1953年5月14日に死去。胃がんでした。前年に改正された移民法により、アメリカ国籍を得られるという書類にサインをする直前、63歳でその人生に幕を閉じました。(伊藤 駿)

国吉康雄の年表

1889年~

1889年(明治22年)
国吉康雄は岡山県岡山市中出石町(現出石町1-79)に生まれる。明治政府、大日本帝国憲法を公布。
フランスではパリ万博が開催される。

1904年(明治37年)
国吉は岡山県立工業学校染料科に入学。
日露戦争(~1905年)が勃発する。

1906年(明治39年)
国吉康雄16歳。岡山県立工業高校染織科を退学し、カナダ、バンクーバーへ労働移民として渡航する。その後、陸路でワシントン州へ渡る。アメリカでは大挙して押し寄せるアジア系労働移民に「仕事を奪われる」という危機感から、アジア系移民への排斥運動が盛んになる。

1907年 (明治40年)
コミュニケーションの手段として絵を描き、英語を学ぶために通っていた公立学校の教師から美術を学ぶように勧められ、ロサンゼルス・スクール・オブ・アート・アンド・デザインの夜間部に入学。メロンやブドウの収穫労働者の仕事などをしながら通う。

1910~1920年代

1910年(明治43年)
国吉康雄21歳。ニューヨークに移住し、ロバート・ヘンライ(1865年~1929年)の美術学校で一時期学ぶ。フランスの美術動向を中心とした作品を紹介する国際現代美術展“アーモリー・ショー(Armory Show,1913)”が開催される。

1914年(大正3年)
国吉康雄25歳。インディペンデント・スクール・オブ・アーツに通い、生涯の友人、スチュアート・デイビス(1894年~1964年)と知り合う。
第一次世界大戦(~1918年)が勃発する。

1916年(大正5年)
国吉康雄27歳。アート・スチューデンツ・リーグへ入学。後にホイットニー美術館の館長となるロイド・グッドリッチ(1897年~1987年)と知り合う。
アルベルト・アインシュタイン(1879年~1955年)が一般相対性理論を発表。

1917年(大正6年)
国吉康雄28歳。アート・スチューデンツ・リーグの奨学金を受ける。前衛的な画家集団・ペンギンクラブに参加し、独立美術家協会創立展に出品。画家としてデビューを果たす。アメリカ現代美術のパトロンのひとりであるハミルトン・イースター・フィールド(1873年~1922年)と出会う。
ロシア革命が起こる。

1919年(大正8年)
国吉康雄30歳。ジュール・パスキン(1880年~1949年)と親しくなる。キャサリン・シュミット(1898年~1978年)と結婚するが、排日移民法によりキャサリンはアメリカの市民権を失う。
国際連盟が発足する。

1920年代

1921年(大正10年)
国吉康雄32歳。ダニエル画廊と契約。
アメリカ経済は大量生産・大量消費の生活様式が確立し大繁栄。文化、思想、産業の多様性が増し、「狂騒の20年代」といわれる時代に突入する。

1922年(大正11年)
国吉康雄33歳。ニューヨークのダニエル画廊で初の個展を開き、以降、1931年まで毎年個展を開催する。
ソビエト社会主義共和国連邦成立。

1923年(大正12年)
国吉康雄34歳。関東大震災が発生し、死者は9万1000人に及んだ。
アメリカで移民割当法が成立。日本からの移民は拒否される。

1925年(大正14年)
国吉康雄36歳。妻、キャサリン・シュミットと10ヶ月のヨーロッパ旅行をする。ジュール・パスキンと再会し、モデルを使っての作画を勧められる。
日本で治安維持法、普通選挙法が成立。
クロード・モネ(1840年~1926年)の『睡蓮』を展示するオランジュリー美術館が公開される。
チャールズ・チャップリン(1889年~1977年)の映画「黄金狂時代」が大ヒット。

1929年(昭和4年)
国吉康雄40歳。シカゴでリトグラフによる個展を開催。ニューヨーク近代美術館(MoMA)の“19人のアメリカ作家展”に、エドワード・ホッパー(1882年~1967年)、ジュール・パスキンらと共に選ばれる。

1930~1940年代前半

1930年(昭和7年)
国吉康雄41歳。ダニエル画廊での最後の個展を開く。
ウルグアイでFIFAワールドカップ第一回大会が開催される。

1931年(昭和6年)
国吉康雄42歳。サロンズ・オブ・アメリカの委員長に就任し、1936年まで務める。病床の父を見舞うため、渡米後、最初にして最後の帰国をする。
当時世界最高の102階建てのエンパイア・ステート・ビル完成。
柳条湖事件をきっかけに満州事変が起こる。

1932年(昭和7年)
国吉康雄43歳。アメリカへの帰国の船上で、父の訃報を聞く。妻、キャサリン・シュミットと離婚する。美術家の自由と人間性保護のための団体、アン・アメリカン・グループの設立に奔走。ホイットニー美術館“第1回現代アメリカ絵画ビエンナーレ展”と二科展に出品。“五・一五事件”が発生し、犬養毅が首相暗殺される。

1933年 (昭和8年)
国吉康雄44歳。アート・スチューデンツ・リーグの教授に就任。ダウンタウン画廊と契約し、個展を開く。フランクリン・ルーズベルト(1882年~1945年)が第32代アメリカ合衆国大統領となり、ニューディール政策が始動。
松岡洋右外務大臣(1880年~1946年)が日本の満州進出と侵略を批難したリットン報告書の採択に国際連盟総会を退席する。
アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年)がドイツ首相となる。ドイツにおいてナチス党が唯一の合法政党となり、一党独裁制となる。

1934年(昭和9年)
国吉康雄45歳。ロサンゼルス・カウンティ美術館主催の年次展で、『テーブルの上の果物』が、二等賞を受賞。名実ともに、アメリカを代表する画家になる。
ソビエト連邦のヨシフ・スターリン(1878年~1953年)による大粛清が始まる。

1935年(昭和10年)
国吉康雄46歳。悪化する日米関係と右翼的な傾向が強まっている世相の中、日本国籍であるため、行動の制限を受けるようになる。35mmのライカ社のカメラを購入する。
ドイツでニュルンベルク法(ユダヤ人公民権停止・ドイツ人との通婚禁止)制定。

1936年(昭和11年)
国吉康雄47歳。アメリカ美術家会議第1回総会に参加。展覧会委員長に任命される。同会議は抑圧に抵抗し、美術家の権利、仕事や保証のための運動を行う政治団体であり、以降、国吉はアメリカの美術界で指導者としての役割を積極的に担うことになる。
日本で二・二六事件が起こる。
“盧溝橋事件”が起き、日本と中華民国間に日中戦争勃発。
スペイン内戦中、ドイツ空軍がゲルニカを空襲。パブロ・ピカソ(1881年~1973年)が『ゲルニカ』を完成させる。

1938年(昭和13年)
国吉康雄49歳。アメリカ美術家会議副委員長に選出される。

1939年(昭和14年)
国吉康雄50歳。美術家団体、アン・アメリカン・グループを設立し、会長に就任。サンフランシスコで行われた“ゴールデンゲート国際展”アメリカ部門において一等賞を受賞する。
ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻。第二次世界大戦が勃発。

1940年(昭和15年)
国吉康雄51歳。MoMAでの討論集会、「アメリカ美術は外国の美術の動向に脅かされているか?」にパネリストとして参加するなど、意見表明や社会活動を積極的に行う。友人たちの勧めで、アメリカ北東部をスケッチ旅行する。1911年に調印された日米通商航海条約が失効したことにより、在米日本人の法的身分が失われる。
日独伊三国軍事同盟が成立。日本では大政翼賛会が結成される。ドイツ軍の侵攻によりパリ陥落。

1941年(昭和16年)
国吉康雄52歳。アメリカが真珠湾を攻撃され、太平洋戦争勃発。
“外国人居住者”から“敵性外国人”の身分となり、カメラ、双眼鏡が没収される。アン・アメリカン・グループ、アート・スチューデンツ・リーグの学生が国吉を支持する声明を発表。国吉は12月12日、在ニューヨーク市日本人美術家委員会を結成し、アメリカ合衆国に忠誠を誓い、日本の軍国主義に反対する声明文を発表する。
独ソ戦勃発。

1942年(昭和17年)
国吉康雄53歳。日本への停戦勧告を原稿に書き、短波放送で読み上げる。アメリカ戦時情報局から国債を集めるための戦争ポスター制作の依頼を受ける。合衆国大統領令第9066により、太平洋岸3州とアリゾナ州の在住の日系人約11万人の強制収容が決定される。

1943年(昭和18年)
国吉康雄54歳。“民主主義のための日系人芸術協議会”の設立に精力を注ぐ。

1944年 (昭和19年)
“民主主義のための日系人芸術協議会”会長に選出され、日本帝国主義を弾劾する声明を発表する。
同年には、ペンシルヴァニア・アカデミー“第139回年次展”においてJ・ヘンリー・シャイト記念賞受賞。この受賞は、敵性外国人が受けた初めての賞だった。カーネギー・インスティテュート“アメリカ合衆国絵画展”で『110号室』が一等賞受賞。好意的評価と同時に、「ジャップに賞を与えた」と、批判も起こる。
日本軍がインパール作戦を開始。グアムで日本軍全滅。

1940年代後半

1945年(昭和20年)
国吉康雄56歳。制作に没頭する。シカゴ・アート・インスティテュート“第56回アメリカ絵画版画年次展”で、『飛び上がろうとする頭のない馬』が、ノーマン・ウェイト・ハリス青銅牌賞を受賞する。
連合軍によるノルマンディー上陸作戦が決行。ドイツ軍からパリが解放される。
ソ連軍、アウシュヴィッツ強制収容所を解放する。アドルフ・ヒトラーが自殺。
太平洋戦争、最後の戦闘である沖縄戦が起こる。同年8月広島、長崎に原爆投下され、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏。
国際連合総会第1回が開催。
イギリスのチャーチル前首相(1874年~1965年)が鉄のカーテン演説を行う。

1947年(昭和22年)
国吉康雄58歳。美術家組合であるアーティスツ・エクイティ・アソシエーションの第1回定例会が行われ、同会の初代会長に就任する。
日本国憲法が施行される。
ジャッキー・ロビンソン(1919年~1972年)、大リーグ初の黒人選手となる。

1948年(昭和23年)
国吉康雄59歳。ルック誌が選ぶ“現代アメリカの最も優れた画家の10人”に選出される。ホイットニー美術館で、同館初の存命画家の回顧展が行われる。シンシナティー美術館の“アン・アメリカンショー”に6人のアメリカ人画家のひとりとして参加。
マハトマ・ガンジー(1869年~1948年)が暗殺される。
国際連合が世界人権宣言を採択。
湯川秀樹博士(1907年~1981年)、ノーベル物理学賞を受賞。

~1953年

1950年(昭和25年)
国吉康雄61歳。夏、体調を崩し、美術家組合の会長を退き、名誉会長となる。メトロポリタン美術館の“今日のアメリカ絵画・1950年”で三等賞を受賞。サーカス主題の絵画制作に熱中していく。
アメリカで、ジョセフ・マッカーシー(1908年~1957年)が反共演説を行いマッカーシー旋風が始まる。
サンフランシスコ講和条約締結。日本とアメリカ合衆国との間の安全保障条約締結。

1952年(昭和27年)
国吉康雄63歳。第26回ヴェネツィア・ビエンナーレに、4人のアメリカ代表作家のひとりとして参加。胃がんと診断される。アメリカでのアジア系移民の市民権獲得が可能となり市民権を申請する。

1953年(昭和28年)
市民権獲得の手続き完了せずに5月14日、胃がんのため死去。63歳と8ヶ月であった。