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YASUO KUNIYOSHI A to Z
COLUMN
K

Kuniyoshi art festival国吉祭

国吉祭2016 少女よお前の命のためにはしれ会場写真 才士真司撮影
更新日:2021.7.31 執筆者:伊藤駿

国吉祭

岡山には「国吉祭」というお祭りがあります。A to Zの読者の皆さんなら、ご存知の方も多いかと思います。国吉祭は、「祭」という字を冠してはいますが、所謂、神仏をお祀りする「祭礼」としての祭ではなく、岡山市出身の洋画家、国吉康雄さんの作品やその人生を広く知ってもらおうと、2013年に、国吉の生まれた出石町で始まった参加型アートイベントが「国吉祭」です。

1. 国吉祭
国吉祭は、講演会やシンポジウム、映像ドキュメンタリーといった国吉康雄に関する最新の研究を発信する場であり、国吉作品の展示はもちろん、作品をアレンジする親子向けの工作ワークショップや、国吉が実際に用いた絵画技法を体験する描画ワークショップなども実施され、国吉作品の活用法を開発する場でもあります。
これらのイベントは同じ会場内で実施され、「祭的な、凝縮された場づくり」が、運営に際しては心がけられています。この狙いは、多様で幅広い年齢層の市民に、国吉康雄作品に親しむ機会を提供することで、地域の文化芸術資源としての国吉康雄の有効的な活用を広く訴え、その資源価値としての公共性を高めることで、国吉研究の推進と保存の意義を訴えることにあります。
国吉祭には幾つかのスタイルがあります。岡山市内のホールなどで行う、美術分野以外の芸術表現とのコラボレーションイベントを実施するもの。岡山県内の中山間地域や沿岸部の町に出張する「国吉祭CARAVAN」。そして、このコロナ禍で実施した、完全オンラインの「国吉祭On-line Studies」などで、様々な企画や運営手法を、連携団体や開催地域、施設の特性を取材し、協働の深化を模索しています。

2. 国吉祭が始まるきっかけ
国吉祭が開催されたきっかけは、出石町で始まった「出石国吉康雄勉強会」のスタートしたことにあります。この勉強会の立ち上げの際、講師兼コーディネーターとして参加したのが才士真司(現、岡山大学国吉康雄研究講座所属)です。才士は2013年にクリエイターとして、香川県の離島、直島にある美術館、ベネッセハウスミュージアムで開催された展覧会「国吉康雄展 − ベネッセアートサイト直島の原点 −」の展示企画に参加しており、取材のため、その生誕地である出石町を何度も訪ね、住民の皆さんに聞き取り調査を行っていました。
このとき出石町の皆さんから、「直島に国吉の絵を見に行きたいので、国吉さんを知るための勉強会を開いてほしい」という要望があり、こうした経緯があって、2012年12月、「出石国吉康雄勉強会」がスタートし、その成果発表の場として企画されたのが2013年10月5日から11月4日の期間で開催された国吉祭でした。
こうして始まった国吉祭は、毎秋に岡山市の観光案内所「出石しろまち工房」(現在は廃止)を中心に、カフェやギャラリー、商店などにシャッターアートやタペストリーを展示するなど、街の賑わいを創出することを目的にしたものでした。一方で、広島市立大学芸術学部による「国吉作品実寸模写プロジェクト」や、岡山県立大学デザイン学科学生有志や岡山後楽館高校クニヨシ部による「国吉タペストリー」の制作展示など、国吉をキーワードに、その活動は広がりを見せていきます。

3. 学生と作る国吉祭
こうしたなか、2015年10月に、公益財団法人福武教育文化振興財団と公益財団法人福武財団の寄付金を原資として、岡山大学に「国吉康雄を中心とした美術教育研究講座(現 国吉康雄記念・美術教育研究と地域創生講座)」(以下、国吉康雄研究講座)が設置されます。国吉康雄研究講座には、国吉祭を企画した才士氏が着任し、国吉祭も国吉康雄研究講座が提供する講義で、学生たちが企画、運営するコンテンツとして活用されることになります。その講義は「クリエイティブ・ディレクター養成講座」といい、さまざまな学部、学年の受講生が参加しています。
この講義で才士は、「それぞれの個性を尊重し、利用して、誰にでもあるクリエイティビティーを発揮する糸口を探す」ことを、繰り返し受講生に促すのですが、この根拠となるのが、国吉の生涯の記録であり、その作品群です。受講生は、国吉祭の企画を考えるために、国吉康雄はもちろんのこと、国吉が生きた時代について調べ、議論をし、考察を重ねます。こうした作業と同時に、受講生は企画の立て方や広告計画の展開の仕方、その効果を、実際に作品を扱うためのリテラシーなども学びながら、実践プログラムとしての「国吉祭」を企画し、運営することで学ぶのです。国吉康雄研究講座ではこのプログラムを充実させるため、国吉康雄勉強会への受講生の参加や、国内外から研究者やプロフェッショナル技術者を招き、受講生との対話の機会を設け、制作現場の指導もお願いしています。

4. 国吉祭2016 少女よお前の命のためにはしれ
2016年秋。学生たちが制作に本格的に関与した初めての「国吉祭」が、日本銀行岡山支店を改装したルネスホールをメイン会場(10月22日・23日)に、市内中心部での展示(10月8日−23日)などを含むイベントとして開催されました。コンセプトは、「老若男女、地域のすべての人に楽しんでもらう」で、学生たちと考案した国吉作品を使用した工作ワークショップは、以降の国吉祭や、各地で開催された国吉康雄展でも実施されるようになります。また、国吉作品に出てくる人や仮面、動物を使用したグッズ開発を、後楽館高校の生徒たちとも行い、宣伝と販売も高校生たちが手掛ける社会体験プログラムも実施しました。このときの講演会で才士は、「岡山の地域資源としての国吉康雄の活用」という趣旨を明確に打ち出し、その実践として、岡山大学のジャズ研究会やダンス部、演劇部有志による、国吉作品をモチーフにしたパフォーマンスも行われました。
なかでも、国吉康雄が出石町で実際に体験していたであろう、出石町に江戸時代から伝わる山車や獅子舞を受講生が取材し、「出石国吉康雄勉強会」と「備前獅子舞太鼓唄保存会」の協力を得て、山車の展示と、祭りに登場する獅子舞を学生が披露したことは、国吉康雄というひとりの芸術家の顕彰活動が、地域全体の文化資源の活用と顕彰に繋がることを証明した事例といえるでしょう。

5. 国吉祭2017 創作音楽舞台劇「老いた道化の肖像をめぐるいくつかの懸念」
2017年の国吉祭は、岡山大学鹿田キャンパスJunko Fukutake Hall (通称Jホール)で、11月25日・26日の日程での開催となりました。この年のメインプログラムは、創作音楽舞台劇で、芸術作品が政府により管理される架空の世界を舞台に、国吉作品の贋作騒動を描く、「老いた道化の肖像をめぐるいくつかの懸念」が、岡山大学国吉康雄研究講座受講生を中心に、岡山県立大学と岡山後楽館高校、地域市民の有志を合わせた製作チームが、東京のプロ俳優、ミュージシャン、舞台技術者を岡山に招く形で実施されました。予算を含む事業規模は大幅に拡大しますが、前年の成功がこの課題の解決を後押しします。まず、会場であるJホールが掲げる、「地域に根ざし、学内外の人々が親しみと誇りを持てるような大学」というコンセプトを改めて地域に発信し、国吉祭としては、「国吉康雄をはじめとした岡山の芸術文化資源を適切に保管、運用していくためにはどうしたら良いか?」というテーマ設定を国吉祭として打ち出し、学生との協働を広く促しました。これにより、岡山県内に拠点や支店をおく企業や団体からの支援に加え、岡山県、岡山市との事業連携を行うことになります。国吉祭終了後には、受講生と共に、「地域芸術文化資源の運用・コンテンツ開発による岡山クリエイティブセクターの活性化を図る拠点育成のための産官学・市民 協働プロジェクトに関する事業実施報告と検証・成果に関するレポート」を作成し、各協力団体に提出しました。以降、こうした演劇のように、芸術分野を超えて実施する国吉祭を「コラボレーション型」と定義するようになります。

6. 「国吉祭2018 CARAVAN (キャラバン)」
この年の国吉祭は岡山県内を遠征する「キャラバン型」という運営手法を取りました。
キャラバン型は、前年のアンケートに、「岡山市以外での実施」の要望が多数あったことを受けて企画されました。その1回目は、高梁市吹屋地区で地域活動をしている陶芸家の田邉典子さんとのご縁で、「吹屋ふるさと村」で行うことになります。田邉さんは、「出石国吉康雄勉強会」に参加されていたこともあり、才士氏との交流が続いていました。岡山大学に国吉康雄研究講座が設立される前の、2015年の春にも国吉祭を実施しており、地域からも「夏祭りを実施するタイミングで子供達が楽しめる屋台の設置」がリクエストされ、2018年8月11日の吹屋納涼祭への参加に続いて、9月29日・30日に国吉祭を開催しました。
2018年は、吹屋に続き、玉野市でも「国吉祭CARAVAN」を10月13日・14日に実施します。玉野市には、3年に一度開催される現代アートの祭典、瀬戸内国際芸術祭の岡山側の玄関口である宇野港がありますが、私たちは、宇野港の施設ではなく、市役所に隣接する「玉野ショッピングモール メルカ」を会場に選びました。メルカには大型スーパーやカフェ、衣料雑貨店など、地域住民の暮らしに欠かせない生活拠点であり、図書館や公民館、イベントスペースなど、文化施設も併設されていました。この選択は、岡山大学国吉康雄研究講座として、来訪者ではなく、地域に向けたイベントを行いたいというメッセージの発信、そのものでした。また、瀬戸内国際芸術祭の会場の一つである玉野に暮らす地域の方々と、直島や豊島のアート運動である「ベネッセアートサイト直島の原点」と呼ばれる国吉康雄を冠にしたイベントを実施するという目的を設定しましたが、2日間の日程で開催された「国吉祭2018 CARAVAN in玉野」では、これまでの「国吉祭」の中で、最も多くの地域の子供達が参加しました。加えて、国立療養所大島青松園で進んでいた園のジオラマ制作プロジェクトの一環として、会場内で「青松のミニチュア作り」のワークショップも実施し、ハンセン病問題の理解を深めるためのイベントも行いました。

7. 国吉祭2019×Jホールレインボーコンサート 音楽と辿る国吉康雄の旅路
2019年は、岡山市でコラボレーション型の国吉祭を。新見市ではキャラバン型の国吉祭を行いました。岡山市では、「国吉祭2019×Jホールレインボーコンサート 音楽と辿る国吉康雄の旅路」という「コラボレーション型」の国吉祭を10月14日に開催しますが、パートナーとなってくれたのが、岡山を拠点に活動する「岡山フィルハーモニック管弦楽団」です。国吉作品の鑑賞と、国吉康雄が活躍当時にアメリカで流行した音楽を、室内楽編成の楽団による生演奏と岡山大学の研究者の解説を交えて行う、ジャンルを横断した画期的な学際的イベントとなりました。
この時の楽曲の選定は、国吉康雄がその生涯で何度も変えた画風に合わせたものとなっており、国吉が肌感覚で捉えていた「近代」とアメリカの変化、作曲家たちが意識した「アメリカ」を体感する内容となりました。この企画意図は、絵画、音楽、歴史など、さまざまな視点をもった鑑賞者を会場内に呼び込み、交流可能な空間を作ることにあり、とても高い評価を得ました。

8. 「国吉祭2019 CARAVAN in 鯉が窪」
新見市の会場は、広島県境に隣接する旧哲西町の鯉が窪にある総合施設「きらめき広場哲西」と隣接する道の駅の敷地内に建つ、「鯉が窪道の駅文化伝習館」をお借りして、12月7日・8日に実施しました。きらめき広場哲西には、図書館や新見市役所哲西支局も併設されており、まさに哲西地区の文化・社会的中心地です。当初、国吉康雄との接点のない鯉が窪での開催には、「無理がある」という声もあったのも事実です。しかし、国吉康雄研究講座では、受講生と共に鯉が窪地域への取材を重ね、敢えて、「国吉という文化芸術資源」を持ち込むことで、鯉が窪地域に伝わる、文化や風俗を再認識してもらうことを目的とする企画を検討します。鯉が窪の観光資源の一つである「鯉のぼり」と、国吉作品の「こいのぼり」をコラージュした「壁画制作プロジェクト」や、神楽面を実際に鑑賞しながら行う、仮面制作ワークショップに加え、哲西町の特産物の「米粉パン」の制作体験をSTEAM教育プログラムが体験可能なワークショップにアレンジするなど、10種類を超えるワークショップを会場内で行いました。
結果、鯉が窪では、これまで実施したどの国吉祭よりも実施したワークショップ数が多いものとなり、家族三世代での来場者も見られるなど、二日間の会期を盛況のうちに終えました。
2019年には、こうした大学での研究と教育活動を基盤とする、「国吉康雄のブランディング」が評価され、7月に、公益社団法人企業メセナ協議会の「THIS IS MECENAT 2019、2020」に、「対話探究型鑑賞システムを運用した地域文化芸術資源によるアートプロジェクト」の活動が認定され、「岡山の地域文化芸術資源として『国吉康雄研究・顕彰活動』のブランディング」を行ったことにより「第20回岡山芸術文化賞(岡山県)」を受賞。また、岡山市からは地域市民、文化団体との協働により、「岡山の地域資源を広く発信し、岡山市の芸術文化の振興と教育普及に貢献している点」を評価され、「第46回岡山市文化奨励賞」を受賞しました。
こうした活動による大学発の学生の教育活動を基盤とした地域協働プログラムとして、認知され始めた国吉祭でしたが、2020年から現在に至るまでのコロナ禍のなか、感染対策実施のため、この開催方法を大幅に変更する必要が生じました。

9. 「国吉祭2020 On-line Studies」
コロナ禍真っ只中で開催した2020年の国吉祭は、岡山大学津島キャンパス内に特設スタジオを設営し、11月7日・8日に映像作品やゲストトークをライブ配信しました。配信プログラムは、国吉康雄研究講座が反転講義(学生の事前予習のために制作した映像資料)用に撮りためた映像素材を多く使用しています。国吉康雄の絵画の紹介番組をはじめ、国吉康雄が帰国した1931年に、国立として全国初のハンセン病患者の療養所として設置された長島愛生園での、ハンセン病患者強制隔離問題や、瀬戸内海の豊島で起こった産業廃棄物不法投棄事件について、それぞれの専門家が解説した映像ツアー、クリエイティブ・ディレクター養成講座受講生が企画した新規映像作品など、全38のプログラムを、2日をかけて配信しました。動画閲覧数は564を数え、ホームページへの訪問数は1136回となり、地元岡山を中心に、東京や大阪などの都市部や、フランス、アメリカからの視聴もありました。
オンラインでの開催となった2020年の国吉祭でしたが、この実施を通してスタッフワークを体験した受講生は、映像で地域の文化芸術を残すことで、将来の地域文化に関する研究資料となる可能性や、映像制作者や出演者の権利を守り、視聴者への配慮などを学ぶ体験を通して、現代社会の成り立ちに密接に関わる、映像コンテンツやネット配信に関わる技術やリテラシーを考える機会となりました。
また、2020年には、国吉祭の関連事業として、11月21日−12月6日の期間、同年8月に逝去された長島愛生園で創作活動を続けた洋画家、清志初男氏の遺作展も開催しました。

ここまでご紹介してきたように、国吉祭は毎年、場所と内容を変えて、岡山県内各地での「お祭り」を、学生や地域の方々と共に作ってきました。参加者からは好意的な感想が多く、年配の方からは、「東京発のイベントではなく、地域の文化を使用したイベントは好感が持てる」や「懐かしい気持ちになる」といったものがあり、子どもたちからの「時間を気にすることなく工作することができて楽しい」などは、毎回寄せられるものです。
国吉祭の企画を担う学生からは、「多様な意見を聞くことができた」「主体的に学ぶことができた」という感想が多く、このプログラムへの参加経験が「社会に出て活かされている」といった声も届けられています。

今年の国吉祭は、11月13日(土)と14日(日)に、オンラインでの配信を学生たちと計画しています。下記HPから配信予定ですので、ぜひ覗いてみてください。

国吉康雄プロジェクト
https://yasuo-kuniyoshi-pj.com/

M

Milking乳しぼり

1921年 | 油彩・キャンバス | 61.0×50.5cm | 和歌山県立近代美術館
更新日:2021.2.25 執筆者:伊藤駿

乳しぼり

1. 丑年
今年は十二支の2番目、丑年です。洋画家・国吉康雄が生まれた1889年も丑年で、当時もインフルエンザやコレラ、天然痘など、ウイルスによる感染症が流行し、パンデミックの発生と収束が繰り返される時代でした。
国吉と同じく、岡山にこの年に生まれた小説家の内田百閒(1889-1971)には、幼少期から牛が大好きで、様々な牛のおもちゃを祖母にねだった挙句、とうとう本物の牛まで買ってもらった。などというエピソードが残っていますが、国吉もその画題に「牛」を好んで選び、その理由を、「丑の年の生まれだから」と発言したというような話が残っています。

というわけで今回は丑年にちなみ、国吉康雄による「牛」をモチーフにした作品を鑑賞してみましょう。

2. 国吉康雄作品《乳しぼり》
この作品は、ちょうど100年前の1921年に発表された作品、《乳しぼり》です。前回紹介した《通りの向こう側》よりも20年以上前の作品で、雰囲気が随分違いますね。描かれた時期によって画風が大きく変わるのも国吉作品の特徴です。

それでは作品を見てみましょう。題名の通り、男性が牛の搾乳をしている場面です。その男性の視線の先には牛小屋があります。長袖を着ていて、木の葉が落ちているところをみると季節は秋でしょうか。でもこの絵、少し不思議な印象を受けませんか。描かれた牛、人物、建物の形も歪ですし、作品の構図も西洋絵画の理屈でいえば、妙なものです。
この作品では、遠くのものが上に描かれ、近くにある物が下に描かれる「上下遠近法」が用いられています。また、見ての通り、必ずしも遠くのものが小さく描かれているわけではありません。これは、日本の伝統的な画法を用いたもので、仏画などの大和絵などはこの手法で描かれています。更に、作品を独特なものにしているのが色彩でしょう。初期の作品ですが、すでに国吉らしい独特な白や茶が使われていて、何層も色を塗り重ねていることがわかります。のちに国吉康雄の代名詞となる「クニヨシホワイト」や「クニヨシブラウン」を思わせる色です。
国吉はこの作品を描いた翌年、ニューヨークにあるダニエル画廊で人生初の個展を開き、ニューヨークタイムズなどで紹介され、《乳しぼり》をはじめとする作品は、高く評価されます。国吉を支援していた美術批評家でアートコレクターのハミルトン・イースターフィールド(1873-1922)は、国吉の作品を「東洋と西洋を心の中で混ぜ合わせた」と絶賛しました。なぜでしょう?
国吉がこうした作品を描いた当時、「フォークアート」と呼ばれる美術・工芸作品がアメリカで再評価されていました。「フォーク」とは「ある共同体に古くから伝わる歴史や地域性、文化、言葉、精神性などを、共同体の外の文明の影響を受けることなく継承する人々の総称」で、その人たちが作る建築や彫刻など作品全般のことを「フォークアート」と呼びます。この中には絵画も含まれていて、ヨーロッパで発展した西洋絵画の技法による特別な教育や訓練を受けていない人が描いたため、現在の感覚で見れば、かなり個性的な作品が多く見られます。
19世紀アメリカの「西部開拓時代」は、金の採掘で、文字通り「一攫千金」を夢見た者たちがアメリカ国内はもとより、ヨーロッパ各地から押し寄せました。「ゴールドラッシュ」です。これに伴い牛肉の需要も増え、牛の家畜としての資産価値も増します。一方、この頃、旅回りで開拓地を訪れ、子供や動物をモチーフに作品を描いて生計を立てていた者が多くおり、体が三等身の子供や歪な調度品などの作品も残っています。国吉が描いた牛や人物は、まさにこうした「フォークアート」を彷彿させるものでした。
国吉は「フォークアート」の研究者、コレクターとしても知られ、展覧会の企画を任されたほどです。つまり国吉は、アメリカと日本、それぞれの「フォークアート」を「混ぜ合わせた」作品を発表したわけです。国吉の個展には、「上下遠近法」で描かれた開拓時代を思わせるような牛や馬、鳥などの動物が並び、目新しさと郷愁を同時に誘うものだったでしょう。この作品が発表された1921年は、1918年から続いたスペイン風邪が収束したとされる年で、長く続いた第一次世界大戦の反動もあって、アメリカは「狂騒の20年代」に突入し、国吉もまた、画家としのキャリアをスタートさせます。

3. 古代の牛
アメリカの転換期と呼べる時代に描かれた「牛」は、晩年まで国吉の絵画に登場します。国吉にとって、一つのシンボルといってもよいかもしれません。そんな「牛」というモチーフは、古代の昔から多く描かれてきました。
例えば、フランスにあるラスコーの洞窟の奥には、紀元前15,000年〜10,000年ごろに、クロマニョン人が描いたオーロックス(原牛)と呼ばれる牛の祖先の姿が確認できます 。描かれた牛は生き生きとしていて、実際の倍以上の大きさである5.5mにもなるものもありますが、「なぜ、描かれたのか」など、多くの謎が残されています。一説には、獲物の絵を描き、石斧や槍で打ち続けることで、本物の動物も屈服するだろうと考えたのではないかという話もあります。
また、紀元前2600年ごろ、最古の国際都市のひとつであるウル(イラク南部)では、王が死ぬと、あの世での暮らしに不便がないよう、奴隷や召使が一緒に埋葬されていたようです。現代の価値観からすれば、「野蛮」な王の墓からは、この地に住んでいたシュメール人が作った精巧で装飾な施された竪琴が発見されているのですが、これが牛のような動物をかたどっています。

4. 東洋の牛
東洋では北宋時代の禅師、廓庵(かくあん)が禅を学ぶ入門書「尋牛図」を制作しています。「尋牛図」は様々な種類があり、日本にも室町時代の画僧、周文(1414-1463)が描いたとされるものが相国寺に伝わっています。逃げ出した牛を探し求める牧人を描いた十枚の絵による連作で、「十牛図」とも呼ばれています。ここで牛は「本当の自分」を。探している牧人は、「本当の自分を探す若者」を表現しているといわれ、「自分とは何かを探す若者の物語」となっています。

国吉は16歳まで日本で暮らし、日露戦争が終わった1906年、高校を中退して単身渡米しています。国吉が渡った当時のアメリカは「ジャポニズム」と呼ばれる日本文化のブームが起こっていました。ハミルトン・イースターフィールドは日本美術の研究家でもあったので、「尋牛図」を見せてもらっていたかもしれませんし、国吉はのちに禅に傾倒していたりしますから、国吉が生涯を「牛」を画題として選んだことも興味深いものです。

5. おわりに
いかがでしょうか。「牛」の描かれ方、扱われ方について、一例を紹介しました。もう一度《乳しぼり》を見てみたなら、何か発見はあるでしょうか?

「牛」は、古代から現在に至るまで、様々な形で美術作品に登場してきました。それだけ、牛と人間の付き合いが古くからあるということでしょう。牛を描く理由を問われた晩年の国吉は、「牛という動物が醜いと同時にとても美しいと思っており、その美醜をともに汲みつくすまで牛を描き続けた」と書き残しています。

私はどこか長閑な雰囲気をこの作品から感じます。1921年という時代を考えると、今の私たちのように、感染症のない平穏な日々を望んだり、懐かく思うといった人々の郷愁を、「フォークアート」に重ね、表現しているのではないかなと思います。
先行きが見通せない毎日ですが、絵画に描かれているものを想像したり、調べてみると何か思わぬ発見があるかもしれません。

今年は、牛のように一歩一歩、力強く歩みたいものです。

参考文献
「Do you know Yasuo Kuniyoshi」 クニヨシパートナーズ 2016年 才士真司
「世界遺産 ラスコー展」毎日新聞社 2016年
「美術の物語」河出書房新社 2017年 エルンスト・H・ゴンブリッチ
「『アート』における『フォーク』と『プリミティブ』」小長谷 英代 早稲田社会科学総合研究 第17巻第1号 2016年
「YASUO KUNIYOSHI」福武書店 1990年

A

Across the Street通りの向こう側

1951年 | カゼイン、石膏パネル | 30.5×50.8cm | 福武コレクション蔵
更新日:2020.8.28 執筆者:伊藤駿

通りの向こう側

今回はこの作品について考えてみたいと思います。
作品や時代背景などの情報を提供する前に、まず、絵を見てみましょう。カラフルな色が目に飛び込んできたと思います。それに、アルファベットが色の上で踊っているようです。よく見れば、色の後ろに別の色が見えてきます。たくさんの色が重なっているようです。では、青い柱や黄色い部分はなんでしょう?画面を分割しているようにも思えます。

…いかがでしょう?他にも発見はありましたか?

この作品は、ニューヨーク市にある「ユニオンスクエア」という広場を望む、国吉康雄のアトリエの窓辺を描いたものです。でも、実際の景色はこんなにカラフルじゃありません。題名は《通りの向こう側》。青い柱や黄色い枠はアトリエの大きな窓。文字が書かれているのが、通りを挟んだ向かい側のアパートです。このアトリエと窓辺の様子は、国吉の制作風景を記録した写真にも登場します。

では次に、この作品が描かれた1951年について考えてみましょう。
この年、韓国と北朝鮮の武力衝突がきっかけとなり国際紛争にまで発展した「朝鮮戦争」が勃発します。韓国側を支援するアメリカと北朝鮮側のソビエト連邦の対立は、東西冷戦を象徴する出来事です。そのアメリカ本土では、ソビエト連邦を支持する共産主義者やその賛同者を取り締まる活動が盛んになり、「赤狩り(レッドパージ)」や、これを主導した非米活動委員会(HUAC)のジョセフ・マッカーシー上院議員にちなんで、「マッカーシズム」とも呼ばれました。当時、アメリカでは共産主義は「非アメリカ的」だとされ、学者や政治家、芸術家やメディアもHUACに喚問されました。2005年の映画「Good night and Good luck」は、CBSのアンカーだったエドワード・R・マローたちジャーナリストが、当時の政府による圧力を描いた作品です。

赤狩りの猛威が吹き荒れるなか、アメリカの美術界では、「抽象表現主義」という芸術様式が流行していました。この呼び名は、美術批評家のロバート・コーツによって命名され、「抽象表現主義以降、芸術の発信地が従来のパリからニューヨークへとシフトしていく」 ことになる原動力となる一方、メトロポリタン美術館で開かれた「今日のアメリカ絵画・1950年展」(12月-1951年1月)では、国吉の《鯉のぼり》が三等賞を受賞しました。この頃の国吉は、芸術家の権利擁護団体である「アーティスツ・エクイティー・アソシエーション」の初代会長を務めていました。この団体は、「アーティストが、地域や人種によって、制作環境やその待遇、報酬において不当な差別を受けることなく、等しく平等な権利を有するため」 の活動を行っていました。国吉たちが率いたこの活動は、共産主義的だと反発を招く一因となります。

この、国吉が受賞した年、国吉の友人で、隣のアパートのアーティストである石垣栄太郎(1893-1958)は、妻の石垣綾子(1903-1996)とともにアメリカを追放されます。石垣は人権問題などの社会課題を作品の主題としていて、「石垣のメッセージは画題にストレートに表現されていて、当時の記録写真やドキュメンタリーフィルムが残したイメージがより劇的に描かれている。」 と評されていました。また、日本の労働運動の先駆者で、アメリカ、日本の共産党の結成に尽力した片山潜(岡山県久米南町出身)と親交があり、片山が結成した「在米日本人社会主義者団」に所属していました。国吉と同じ歳のチャールズ・チャップリンも石垣と同様の理由でアメリカを追われます。国吉は追放こそされませんでしたが、国吉の生徒だったブルース・ドーフマンは、「国吉が司法省のブラックリストに載っており、ドーフマンの推薦者がその国吉という理由で、奨学金が取り消しになった」と語っています。
余談ですが、国吉はトーマス・カポーティの小説「ティファニーで朝食を」に出てくる「ユニヨシ」のモデルで、ユニオンスクエアの向かいに住んでいたクニヨシだから「ユニヨシ」だそうです。ユニヨシは「日系アメリカ人2世」のカメラマンという設定ですが、実際の国吉も、写真でライカの賞を獲得する腕前でした。オードリー・ヘップバーンが主演した映画版では、ミッキー・ルーニーがユニヨシを演じ、「背が低く、メガネ、出っ歯などといったステレオタイプ的な醜い容姿の日本人」として描かれています。

では、そのユニオンスクエアについて紹介しましょう。ユニオンスクエアは、1882年に一万人の労働者が労働環境の改善と賃金上昇を求めて行進を行なった「レイバーデーパレード」から現在まで、数え切れないコミュニティイベントやフェスティバルが行われています。 1920年にアメリカで起きた冤罪事件「サッコ・ヴァンゼッティ事件」の抗議集会もこの場所で行われ、この集会には石垣も参加していました。最近では「Black Lives Matter運動」の、マンハッタンでの中心地の一つがユニオンスクエアです。この運動は、今年の5月にアフリカ系男性のジョージ・フロイド氏が白人警官に殺害されたことをきっかけに、全米、全世界に拡大しました。

ここまで、《通りの向こう側》に関わる「時代」「作者」「場所」について紹介してきました。もう一度、作品を見てみましょう。何か印象は変わったでしょうか。

国吉は描いた作品についての説明をしませんから、この絵が何を意図して描かれたのかはわかりません。ただ、「アトリエの窓辺の景色」と、明確にわかるように描きました。女性画や荒野の景色など、匿名性を絵の主題とする国吉には珍しい例です。この窓辺から国吉は、雪景色のユニオンスクエアを撮影し、写真に残しています。
《通りの向こう側》は、1940年代後半の「サーカスシリーズ」に見られる鮮やかな色彩のレイヤーと、画面分割が特徴です。前述した通り、作品についての説明や記録を残していない国吉ですが、この翌年に描く油彩画の大作《ミスターエース》では、その制作の過程で、「(絵を描くことは)色に命を与える作業だ」 という言葉を残しました。《ミスターエース》は道化師を描いた作品ですが、その色彩と背景画には、《通りの向こう側》に通じるものがあります。

映画監督の大林宣彦さんは、パブロ・ピカソ(1881-1973)の傑作《ゲルニカ》について、「(ゲルニカを)写真のようなリアルな絵で再現されていたならどうだったでしょうか?衝撃的ではありますが、あまりみたくない。忘れたい、なかったことにしたい、とすぐに風化してしまいます。(中略)しかしあの絵であれば、そうして風化したり無視されてしまうことがないわけです」と仰っていますが、こうした作品制作の工夫や背景となる思想は、国吉に通じるものです。国吉もまた、「多様性を守り、互いに認め合うことの大切さ」を訴えていました。

もう一度、作品に目をやると、窓に映った文字が、デモ行進をしている人々の訴えにも見えるような気がします。皆さんにはこの、《通りの向こう側》という作品。どのように映ったでしょうか。

引用文献
 Artscape ,https://artscape.jp/artword/index.php/%E6%8A%BD%E8%B1%A1%E8%A1%A8%E7%8F%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9, (参照 2020-8-13)
 才士真司「Do you know Yasuo Kuniyoshi」,p65,2017
 和歌山県立近代美術館ニュースNo.94,pp.2〜4,2018
 村上由見子『イエロー・フェイス ハリウッド映画にみるアジア人の肖像』朝日新聞社〈朝日選書〉, pp. 85-86. 1993
 The New York times「What Is Labor Day? A History of the Workers’ Holiday」2018年9月1日,https://www.nytimes.com/2018/09/01/us/what-is-labor-day.html,(参照 2020-8-15)
 才士真司「Do you know Yasuo Kuniyoshi」,p75,2017
 大林宣彦「最後の講義 映画とは“フィロソフィー”」 主婦の友社 p198,2020

D

Department of Yasuo Kuniyoshi Studies:Art Education and Rural Revitalization国立大学法人岡山大学大学院教育学研究科《国吉康雄記念・美術教育研究と地域創生寄付講座》

Department of Yasuo Kuniyoshi Studies:Art Education and Rural Revitalization国立大学法人岡山大学大学院教育学研究科《国吉康雄記念・美術教育研究と地域創生寄付講座》

国吉康雄研究の成果をもとに独自企画した主催展覧会「Mr. Ace X-O. Modern(ミスターエース クロスオーバーモダン) SETOUCHI ⇄ Y.Kuniyoshi ⇄ NEW YORK展」(岡山シティミュージアム)  撮影:才士真司
更新日:2020.3.25 執筆者:伊藤駿

国立大学法人岡山大学大学院教育学研究科《国吉康雄記念・美術教育研究と地域創生寄付講座》

岡山大学には13の学部と大学院に8つ研究科があります。今回、紹介する《国吉康雄記念・美術教育研究寄付講座》(以下、国吉康雄研究講座)は、大学院教育学研究科にあります。国吉康雄研究講座は、2015年に、岡山県の教育文化活動の支援を行い、人材の育成と地域の発展に尽力している公益財団法人福武教育文化振興財団と、ベネッセアートサイト直島(注1)などの運営を担い、質とその数で世界最大の規模を誇る国吉康雄作品のコレクションである「福武コレクション」を管理している公益財団法人福武財団の寄付金により設置された、岡山大学初の人文社会学系の寄付講座です。
国吉康雄研究講座では、その名の通り、国吉康雄の研究、研究成果を広く発信する顕彰活動や、国吉作品を使用した鑑賞モデルの開発と教育的運用を行なっています。このモットーは、「あるものを活かし、新しい価値を生み出す」で、岡山で学ぶ学生と地域の橋渡し役を担っています。

国吉康雄の研究
国吉康雄研究講座では、国吉康雄作品の画法を調べるといった基礎的な研究はもちろん、作品が制作された時代背景や、国吉が残した遺品や資料を元に研究を進めています。また、国吉と同じように20世紀前半に渡米し、画家となった「日系アメリカ人アーティスト」を研究する美術館と連携し、こうした作家たちの作品と比較する活動も行い、岡山とそれぞれの地域コレクションの価値を高め合う活動も行なっています。

国吉康雄の顕彰
顕彰活動では、国吉研究の成果と、作品の活用を広く発信するため、参加型アートイベント「国吉祭」と、「福武コレクション」を運用した「展覧会」を行なっています。
「国吉祭」は、岡山市内中心市街地で開催する「コラボレーション型」と、岡山県内の港町や中山間地域で実施してきた「CARAVAN型」2つのタイプがあります。これまでに岡山大学鹿田キャンパスJunko Fukutake Hallやルネスホールなどの岡山市内の文化施設を始め、下津井、吹屋、宇野港、哲西町で開催しました。どちらの「国吉祭」も、岡山大学の学生が企画と運営を行っていますが、このことについては、また別の機会に詳しく紹介したいと思います。
「展覧会」では、国吉研究の成果をもとに、岡山シティミュージアムでの独自企画の主催展覧会をはじめ、横浜そごう美術館、和歌山県立近代美術館、栃木県立美術館、瀬戸内市立美術館、熊本県立美術館、宇城市不知火美術館との、共同企画展を開催してきました。

国吉康雄作品を使用した鑑賞法の開発
「国吉祭」や展覧会を実施した美術館と、その開催地域の小中学校、高校で、国吉康雄研究講座が開発した「国吉型・対話探究モデル」を使用した作品鑑賞会を開催しています。この鑑賞会の目的は、鑑賞者が、より国吉作品に親しみ、国吉作品を通して、芸術や近代の歴史、社会学に興味を持つことです。そのため、ファシリテーターは積極的に、作家や作品制作時の情報など、様々な知識を鑑賞者に共有します。この点が、一般的な対話型鑑賞法と違い、鑑賞者は、「芸術を体験する」という刺激を受けながら、「教養」や「対話」、「多様性」の重要性を知る機会となり、高い評価を受けています。このことについても、「A to Z」で、いずれ詳しく報告させていただきます。

岡山・瀬戸内地域の芸術文化資源の保全と活用の必要性を検証
国吉康雄研究講座では、ここまでに紹介した研究・顕彰・教育普及活動で培った手法を活かすことで、地域の文化芸術資源の保全にも取り組んでいます。
2016年4月の熊本地震の発生では、被災した洋画作品のレスキュー活動に参加したことをきっかけに、被災した洋画作品の保全に取り組む地域団体に、岡山での活動の経験を提供し、同団体が企画するイベントなどで、運営支援を行っています。
岡山でも、2018年7月に、西日本豪雨が発生しました。多くの人的、経済的な損失と共に、文化財への被害も深刻なものでした。国吉康雄研究講座は、同年10月に、「岡山から文化芸術資源について考えるシンポジウム」を、岡山大学鹿田キャンパスJunko Fukutake Hallで実施し、岡山、熊本、ニューヨークで、文化財の修復・保全に携わる専門家が参加。「災害が多発する我が国において、有事の際、被災した地域の文化財の保全はどのように行われるべきか?」というテーマで、意見を交換しました。

こうした国吉康雄研究講座の取り組みは、地域の芸術文化資源の新しい、研究・顕彰・保全の好事例として注目され、2019年、岡山県の「第20回岡山芸術文化賞」を受賞し、岡山市からは「第46回岡山市文化奨励賞」を授与されました。また、公益財団法人メセナ協議会が行う「THIS IS MECENAT 2019」では、「国吉祭」と展覧会活動の2つが認定されています。
国吉康雄研究講座の、国吉康雄コレクションを活用した、地域文化の保存と継承を、学生、と市民、地域と協働で行うシステムは、持続可能な文化基盤を地域に形成する上で、これからの時代に欠かせないモデルのひとつに育ちつつあります。

注1 ベネッセアートサイト直島 瀬戸内海の直島、豊島、犬島を舞台に株式会社ベネッセホールディングスと公益財団法人 福武財団が展開しているアート活動の総称

C

Clippings国吉康雄のスクラップブック

国吉康雄によるスクラップ記事のファイル表紙 | 「千九百三十一年末 母国訪問記念展覧会についての諸新聞の批評」(国吉自筆) | 表紙は305mm×235mm、ファイルのページ数は24ページ+表紙および裏表紙 | 福武コレクション蔵
更新日:2020.3.25 執筆者:江原久美子

国吉康雄のスクラップブック

国吉康雄(1889-1953)は16歳で渡米したあと生涯をほとんどアメリカで過ごしたが、その間一度だけ日本に帰国した。1931(昭和6)年、彼は42歳だった。
1931年10月14日、横浜港に到着した国吉は何人もの新聞記者に囲まれ、写真を撮られ、談話を求められた。そして翌日、次のように報じられた。
「米国第一の邦人画家 国吉康雄氏帰る 東京、大阪で展覧会」
14日正午シアトルから横浜に入港の郵船日枝丸で米国第一の日本人画家国吉康雄氏が帰朝した。・・・(国吉の)作品は全米、いたるところのミュージアムに掲げられているほど一流の画家である。最近ピッツバーグに開かれたカーネギーインターナショナルに出品した静物は特賞をもらったが、これはピカソとかマチスなど世界的画家に与えられたもので日本人では氏が最初である。・・・「私の傾向は表現派をさらに突きつめた国吉イズムで通っている。米国の画壇には・・・将来有望な画家はごろごろしている。・・・今度は東日(東京日日新聞)、大毎(大阪毎日新聞)両社の主催で私の個人展覧会をするための帰朝ですが実は岡山の病父を見舞うのも重要なる目的です」
(大阪毎日新聞 1931年10月15日)

この記事を、国吉康雄は新聞から切り抜き、スクラップブックに貼り付けた。「千九百三十一年末 母国訪問記念展覧会についての諸新聞の批評」と彼自身が題したスクラップブックは、現在、福武コレクションのひとつとして保存されている。
国吉がスクラップした記事を一つ一つ読むと、約3ヶ月半の日本滞在中、国吉がどういう足取りをたどり、誰と会い、何を話したかが改めて浮かび上がってくる。国吉はかなり忙しく過ごしたようだ。
横浜到着時に彼自身が語ったように、国吉は岡山で病気の父を見舞い、東京と大阪で展覧会を開いた。展覧会に訪れた大勢の人の応対をし、商談も進んだ(2点が売れた)。東京の美術関係者、大阪の美術関係者がそれぞれ国吉のために開いてくれた歓迎会に出席した。大判の画集の企画が進み、実際に刊行された。岡山では、父のほか義理の妹たち、近隣の人々とのつきあいが再開し、石版画展も開かれた。大きな美術団体「二科会」の会員に推挙され、国吉がアメリカに帰る直前に東京で披露パーティーが開かれた。
当時の新聞や美術雑誌には、国吉の動向を伝える記事、彼の画業を紹介する記事、展覧会の批評などが次々に掲載された。彼自身がスクラップした記事33本をはじめ、国吉の日本滞在中、彼について報道した記事は合計64本にのぼる。
なぜ国吉康雄は日本でこれほどまでに注目され、歓迎されたのだろうか。実はそこには藤田嗣治と有島生馬という二人の人物が深く関わっていた。すでにスター画家だった藤田嗣治は、1931年日本からフランスに帰る途中ニューヨークで国吉と会い、東京の有島生馬――旧知の仲で、著名な画家・作家・美術評論家――に「小生の最も敬畏する大家」として国吉を紹介する手紙を書いた。それを受け取った有島が日本での国吉の個展を企画し、マスコミ各社へのプロモーションを行い、国吉を日本の美術関係者に紹介し、自らが役員を務める二科会の会員として国吉を推挙した。有島が述べた「フランスの藤田嗣治、アメリカの国吉康雄」という謳い文句は、他の多くの新聞や雑誌で引用されている。
国吉自身は、日本の人々の反応をどう思っていたのだろうか。
「今度の個人展覧会に於て多大の御後援を得、これを契機として、多くの先輩や友人の知己を得られました事を深く感謝いたしております。」(「アトリエ」1932年1月号)
としつつも、国吉の考えが最もストレートに出ているのは次の言葉だと思われる。
「アメリカの美術は日本に知られていないということは聞いていたが、あまりに知られていないのに驚きました。アメリカも日本と同じようにアメリカ独特のものは生まれていないと言っていいでしょうが、今から見ると百年ばかり前の建築、織物、家具、彫刻などに、本当のアメリカの姿とみられるものがあるので、これらと現代欧州美術とが織り交ぜられて、アメリカ独自のものが生まれ出るようになるのも近いことと思います。・・・今にアメリカもわずかの時日に美術国になったものだといわれるようになるだろうと思います。・・・欧州に行かれる日本の方々も、なるべくアメリカを通過して行っていただきたいと思います、私もアメリカにいることですから、出来るだけの御便宜は計りたいと思います。」
(「美術新論」1932年1月号)

1931年当時の日本の美術界はフランスへの憧れが強く、まだほとんどアメリカ美術を知らなかった。国吉はそのことに驚きと落胆を感じつつも、今後の展開に期待しようとしている。そして実際に国吉を知ったことをきっかけに、日本ではアメリカ美術についての興味が高まっていく。
日米の戦争により、国吉と日本の人々の交流は一時は中断したが、戦後すぐに復活し、日本とアメリカでそれぞれ開かれた国際的な美術展覧会のために国吉は奔走した。国吉の帰国から始まった日本の人々との親しみと敬意は、その後も消えることなく続いたのだ。

引用の記事の原文はいずれも旧仮名遣い。
なお、国吉康雄がスクラップした記事をはじめ当時の報道記事、および国吉の足取りについては次の研究資料もぜひご覧ください。
「国吉康雄の帰朝時の動向―国吉自身がスクラップした記事を中心にー」江原久美子
(岡山大学大学院教育学研究科研究集録 第173号)
http://eprints.lib.okayama-u.ac.jp/ja/journal/bgeou/173/--/article/57999

B

Bullfight闘牛

1928年 | リトグラフ | 22.9×23.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2020.1.27 執筆者:江原久美子

闘牛

馬に乗った闘牛士が、牛の背中に剣を突き立てている。牛が今にも闘牛士を襲おうとしていた瞬間、馬は牛をかわしながら前脚をあげて跳び上がり、闘牛士は高い位置から牛の背中を真上から攻撃している。彼の顔は見えないが、激しい動きの中で、冷静かつ確実に、牛を仕留める一撃を放ったのだろう。
ドラマティックで残酷な場面だが「スペインの闘牛」の光景としては出来すぎのような、典型的なイメージだ。国吉はこんな場面を直接見たのだろうか?
国吉康雄は、1925年と1928年にヨーロッパを訪れている。スペインには1928年に行ったようだ。そのとき闘牛も見てこれを描いたのかもしれない。・・・だが、もっと直接に国吉のイメージの元となった図像がある。それは、国吉康雄の遺品に含まれるバンダナに印刷された図柄で、ほぼ同じ構図で闘牛士と牛が描かれている。国吉はスペインでこのバンダナを買い、同じ年にパリでリトグラフを数多く制作した際に、バンダナの図柄を借りた作品も描いたのではないだろうかと考えられる。
しかしもとのバンダナとは異なり、国吉の石版画は白地に黒の線と陰影だけで描かれている。闘牛士と牛と馬の緊迫感、命をかけて闘っている心の動きや強さ、美しさをも感じ取ることができる。
この作品は、1932年1月に国吉が岡山で開いた「國吉画伯 石版画展」でも展示された。そのときの会場の写真が、当時の新聞(中国民報、1932年1月17日)に掲載されている。粗い画像ではあるが、会場内に何点もの石版画が展示されている中、あきらかにこの「闘牛」もあったことが確認できる。
当時の岡山の人々にとって「スペインの闘牛」という題材は、聞いたことはあったかもしれないが、実物はもちろん写真や絵で見る機会も少なかっただろう。遠い世界の珍しい風物として、この「闘牛」という作品を見たかもしれない。
では「石版画」という技法についてはどうだったのだろうか。私は前回、1932年の国吉康雄の石版画展が、岡山の人々にとって石版画を初めて見る機会だっただろうという旨を書いたが、それは正しくなかった。18世紀にドイツで発明された石版画の技法は、明治期の日本にすでに導入されていた。木版画や銅版画が彫刻刀で線を削り出すのとは異なり、石版画は鉛筆やクレヨンで描いた下絵をそのまま写し取る。描こうとするものの陰影を滑らかな筆致で表現し、まるで写真のようにリアルに再現することができるため、貨幣の図像の記録や、皇族や貴族の肖像画、役者絵などさまざまな用途に利用された。明治期の石版画は、実在する対象の姿を写し取って人々に伝える役割を果たしていたのだ。
石版画はまた、明治期の学校の図画の教科書にも使われた。当時の図画の教科書には手本となる絵が1ページずつ載っており、生徒たちは手本を忠実に真似して描いていた。当時の鉛筆画の教科書は、石版で1ページずつ刷られたものだった。
明治期に隆盛した石版画は、明治時代の終わり頃には石の版から亜鉛やアルミの版に、1枚ずつの手刷りから機械刷りに取って代わられた。昭和7年ごろの岡山の人々にとって石版画は、かつては身近な絵画・メディアとしてよく目にしていたが最近はあまり見ないという存在だっただろう。
国吉が石版画展で見せた「スペインの闘牛」や「パリの踊り子たち」の風物は、もしかすると、昔の図画の教科書のように「世界のどこかにある珍しいもの」を写し出したものとして受け取られたかもしれない。
しかし、国吉の、白地に黒色だけの石版画を見た人は、描かれているものの心の動きや、描かれている場所の空気感までも感じただろう。それは、鮮やかな色彩の絵画を見るよりも新鮮な体験であり、人々の心に残るものだっただろう。

参考
『描かれた明治ニッポン〜石版画(リトグラフ)の時代〜』描かれた明治ニッポン展実行委員会、2002年
増野恵子(1997)「石版画の流行」、『日本美術館』小学館、pp.962-967

T

Three Dancers三人の踊り子

1927年 | リトグラフ | 30.8×26.4cm | 福武コレクション蔵
更新日:2019.11.25 執筆者:江原久美子

三人の踊り子

おそろいの舞台衣装を身につけた踊り子が、3人並んでポーズを決めている。視線を客の方に向け、右手は上に、左手は腰に、右脚は後ろに引き、左脚はつま先をぴんと伸ばして前へ。生き生きとして愛らしく、国吉のリトグラフの中でもとくに目を引く作品だ。
アメリカで活躍した国吉康雄は生涯に一度だけ帰国した。岡山では地元の人々に求められてタコやブドウを墨で描いたりしたが、日本を出発する少し前に、リトグラフの展覧会を岡山で開いている。1932(昭和7)年1月のことだ。
リトグラフ展の開催前日、主催者である中国民報は次のような記事を掲載した。
「輝く世界的画人 米国画壇の寵児、国吉康雄氏 十七、八両日作品を公開」
(中国民報、1932(昭和7)年1月16日)

記事は、国吉がアメリカで著名な画家であること、渡米26年を経て昨秋帰朝し、東京と大阪でおこなった展覧会によって日本の画壇でも高く評価されたことを紹介し、次のように続く。
「本社はここに、氏の画技のうち最も得意とするリソグラフ(石版画)の作品数十点を、氏に乞うて岡山市西大寺町明治製菓楼上に展覧(入場無料)することにしました。」
「我らが郷土の生める世界的画家の懐しい故国に初デビューするその偉業を鑑賞し、その喜びをわかつため、こぞってご来観あらんことを希望するものであります。」
そして「世界人クニヨシ」というタイトルとともに、妻のキャサリンと見つめ合う国吉の写真と、この「三人の踊り子」の図版を掲載した。1
展覧会が始まると、今度は会場写真が掲載された。そこには、濃い色の壁に白地のリトグラフが映え、観客が熱心に見ている様子が写っている。
岡山の画家の重鎮、吉田苞(しげる)は、
「油絵が見られないのは残念だが、石版画によって国吉の画風が十分味わえる。国吉を知っている人にも知らない人にも、国吉の画業に接することは鑑賞上のよい収穫だ。」(中国民報、1932年1月17日)という内容の賛辞を寄せた。
岡山の人々は「三人の踊り子」を見て、どう思っただろうか。初めて見る石版画という技法に興味をもち、描かれた西洋の踊り子たちの明るさ、快活さを感じたことだろう。そして、それを描き出している線の確かさに触れ、画家の実力を感じ、国吉が今後も活躍することを確信したことだろう。
リトグラフが展示された会場は、静かな美術館ではなく、「西大寺町 明治製菓」、つまり明治製菓の岡山売店だった。これは明治製菓が全国で展開していたモダンな喫茶店のひとつであり、岡山売店は「二階が集会場になってて、小集会は、たいていここで催された」という。2
繁華街に位置する集会場で開かれたリトグラフ展には多くの人々が集まり、国吉の作品を見てさまざまに語り合ったことだろう。
先に紹介した吉田苞のほか、岡山の画家たちの団体「岡山美術研究会」のメンバー十数名は、後楽園で国吉を囲んで集まり、記念写真を撮影した。彼らも当然リトグラフ展を訪れたはずである。
国吉はこのリトグラフ展を終えた数日後に岡山を出発し、2月はじめに横浜からアメリカへの帰途についた。帰りの船上では、岡山で病床にあった父がついに亡くなったとの知らせを受け取っている。
しかしそれで岡山との縁が切れたわけではなかった。国吉はアメリカに戻ったあと、岡山の義理の姪たちと文通を始めている。文通は、日米の戦争中は中断したものの戦後には再開し、国吉が1953年に亡くなる直前まで続いた。3
国吉にとって岡山は、1932年のリトグラフ展の思い出とともに生きていたのだ。

1 キャサリンは国吉の帰朝には同行しなかったが、国吉がアメリカで白人女性と結婚したことは当時の日本人の興味を引き、中国民報のほか様々な新聞が報じた。
2 岡長平(1977)「カッフェー・ブラジル」、『岡山始まり物語』(岡長平著作集第2巻)岡山日日新聞社 p.183。
ほか、明治製菓売店については、橋爪紳也(2006)「食とビルディング」、『モダニズムのニッポン』角川書店を参照した。
3 妹尾克己(2009)「資料紹介 国吉康雄の義理の妹たちへの手紙と写真」、『岡山県立美術館 紀要』創刊第1号

L

Landscape風景

1919年 | 油彩、キャンバス | 41.0×51.0cm | 福武コレクション蔵
更新日:2019.9.30 執筆者:江原久美子

風景

この作品は2020年1月までベネッセハウスミュージアム(香川県直島)に展示されています。

遠くに山があり、山のこちら側には草むらや木々が広がっている。画面全体が、緑や黄色、赤など、濃くて鮮やかな色のかたまりで埋め尽くされている。黄色や赤ということは紅葉の季節なのだろうか、満ちあふれる生命感が伝わってくる。
国吉康雄がこの「風景」という絵を描いたのは1919年、彼がニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグでの絵画修業を終えようとしていた頃だった。
ちょうどそのころ、アメリカの美術界では劇的な変化が起こっていた。アメリカの画家たちは、それまではイギリスの保守的な絵画を模範としていたのに、印象派からキュビズムまでの、フランスを中心とした美術の新しい動向が一気になだれこんできたのだ。
きっかけは1913年、ニューヨークで開かれた「アーモリー・ショー」という展覧会だった。「アーモリー」(armory)とは「武器庫」という意味で、ニューヨークの武器庫だった建物に、ヨーロッパのアーティストによる作品と、アメリカのアーティストによる作品が展示された。
国吉康雄自身は、仕事のためにニューヨークを離れていたため、アーモリー・ショーを見ていない。このころのことを国吉は後年次のように書いている。
゛そこ(当時通っていたインディペンデント・スクール)では、皆がアーモリー・ショーについて話していた。キュビズムの雰囲気が漂っていた。デュシャンの「階段を降りる裸体」が熱狂的な興味をかきたてていた。ゴッホやゴーギャンや、19世紀の巨匠たちの作品の複製が学校の壁を埋め尽くしていた。私はこの興奮に巻き込まれたが、何についてのものなのか、本当には理解していなかった。゛1
国吉康雄は修業時代印象派からの影響を強く受けた、と言われている。しかし国吉は、印象派だけではなく当時触れた新しい美術動向がどのようなものなのか、自分もそれを取り入れるべきなのかを貪欲に試していた。ゴッホのように鮮やかな色彩を強調することによって感情を表現しようとしたり、セザンヌのように、目に見えるものをそのまま再現するのではなく幾つかの部分を取り出し、それらを見る角度を変えて画面上に再構成するという方法を試してみたり、“野獣派”と呼ばれたマティスたちのように、激しい色合いや筆使いによって、画面に力強さを持たせようとしたりした。さらには1920年代になると、キュビズムの影響を受けたような、描くものの形を非常に単純化したり形を強調したりする作品を描くようになる。
修業時代、次々に新しい絵画動向に触れ、そのまま真似するのではなく自分に合った方法を試していた国吉。彼自身は、結局何がその後の画業の方向性を決定づけたのかを次のように書いている。
゛私の美術に対する考えを変えたのは彼(リーグの教師、ケネス・H・ミラー)だった。それまで私は方向性も動機も持っていなかったのだが、それを持つようになった。私が古典の名作を見て学ぶようになったのは、そのころのことだ。彼がドーミエの素描を紹介してくれたことをはっきりと覚えている。私はその素描の意味と重要性をしっかりと理解しようとした。゛ 2
オノレ・ドーミエは19世紀フランスの写実主義の画家で、風刺的なメッセージをこめた絵画で知られる。具体的で写実的でありながら、目の前の現実をただ写し取るのではなく、なんらかの意図をもって見る人に何かを考えさせること。これは国吉康雄の絵画の大きな特徴でもある。国吉に大きな影響を与えたのはいわゆるモダンアートではなく、古典的な絵画だったのだ。
国吉は修業時代、ヨーロッパの美術とともに、日本の浮世絵やアメリカのフォークアートもよく見て影響を受けた。日本で生まれ育ったこと、アメリカで生活していること、ヨーロッパの美術に触れたこと・・・彼自身の人生を構成するさまざまな要素を内面に深く沈めて溶け合わせ、国吉は彼自身の独自の表現を生み出していった。

1 “East to West.” Magazine of Art, vol.33.no2 (February,1940)より。原文は英語(江原訳)
2 同上

W

Watermelon西瓜

1938年 | 油彩、キャンバス | 101.6×142.2cm | 福武コレクション蔵
更新日:2019.7.25 執筆者:江原久美子

西瓜

単純な絵
細長いスイカが真っ二つに切られ、断面を上にして置かれている。このスイカはよほど大きいのだろうか、四角いテーブルの上に収まらず、片方はテーブルの向こう側に落ちそうだ。テーブルにはなぜか右半分だけ白い布(あるいは紙?)が敷かれているテーブルはたぶん木製で、背景はテーブルと同じような茶色で塗られている。
それだけといえばそれだけの絵だ。この絵は結構サイズが大きく、国吉康雄が描いた作品としては最も大きなものの一つなのだが、そこに堂々と「半分に切られたスイカ」しか描かれていないとなると、見る者としてはなんだか肩透かしをくらったような気持ちになる。だがもう少しじっくりスイカを見てみると、二つの断面の色が少し違っていることに気がつく。右側のほうが左側に比べて少し赤色が濃く、切ってしばらくそのまま置かれているような、新鮮さが失われているような感じがする。フチの白い部分も右側のスイカの方は少し変色しているようだ。一つのスイカを切ってそのまま二つの断面を置いていると思っていたが、そうではないのだろうか?
なんとなく腑に落ちないが、全体としては、赤と緑、白、そして茶色という4つの色が単純な形で画面の中に構成されていて、見ていて心地がよい。2015年、スミソニアンアメリカ美術館での国吉康雄回顧展にこの作品が出展された際、図録には「ありのままを描く率直さが、『西瓜』に力強さを与えている。」1 と書かれていた。まずは、単純さ、率直さ、力強さがこの絵の特長といえるだろう。

腐っていくスイカ
国吉康雄の絵にはいつも「何を表しているのだろう?」と深読みしたくなるような謎めいたところがある。この絵にも、こんな大きな画面にスイカだけ? なんだか奇妙だ、色や構図だけを楽しむ絵でもなさそうだ、という違和感がある。
絵だけ見ていても難しいので、本人が書いた文章を読んでみよう。国吉康雄が静物画について書いた文章の一節である。
「西瓜を描いていた時に、途中で西瓜が傷み始め、描き終わる前に皮まで腐ってしまったことがあったのを私は思い出す。西瓜は虫だらけになってしまったが、面白いことに一ヶ月が過ぎ去り、絵はまだ完成していないのに、西瓜自体の原型が崩れ去った後でも、全てのものを制作を始めた時に組み立てた通りにしておくと、目の前に私は西瓜を感じ、視覚化することができた」2
国吉は1ヶ月以上かけて目の前で西瓜が腐っていく様子を見ていたという。切られた半分のうち左側のスイカは比較的新鮮なとき、右側はかなり傷んだ状態を描いたものだろう。この絵の中で、時間が流れているのだ。
そしてこの文章からわかることは、国吉が目の前のものをそのまま描いていたわけではなく、記憶の中にとどめた姿をもう一度組み立てて描いたということだ。
「目の前のものをそのまま描くのではなく、記憶の中にとどめた姿をもう一度組み立てて描く」。この方法を、国吉はこの時期数多く描いた女性像の制作でも用いた。モデルを前に多数のデッサンを描き、そのあと半年以上置いておいて女性たちのイメージが自分の頭の中で溶け合ってから、油彩画を描いた。それらの絵を、国吉は特定の女性ではない自分にとっての理想の女、「ユニバーサル・ウーマン」と呼んだ。
国吉はスイカを描くとき、女性を描くときと同じような姿勢で臨んでいたのだろうか。確かにこのスイカの生々しさは、女性の肉感的な感じを連想させる。生きていて、時間とともに変化し、朽ちていく肉体。「絵は完成していないのに西瓜自体の原型は崩れ去った」と国吉は書いている。動かないように見える静物も、時間の経過とともに変化していく。その姿を国吉はとらえた。
そういえばセザンヌという画家は静物画、風景画のほか肖像画も描き、肖像画のモデルを務める妻に「動くな!リンゴは動かない」と言ったという。セザンヌには、自然の中にある「物」の形を単純化し、自然の持つ本質を描き出そう、自然が永続的な存在であることを表現しようという意図があった。セザンヌは、自分が見ている「物」の形と色を単純化して描こうとしたが、国吉は単純な形と色を使いながらセザンヌとは異なり、永続的ではない「生命の姿」を描き出した。移りゆくもの、腐っていくもの、国吉はそちらのほうに本質があると考えていたのではないだろうか。
「移りゆく生命」「朽ちていく肉体」を描いた絵は、古今東西に存在する。西洋には、豪華な静物画の中にあえてドクロや腐っていく果物を置いて、人間の死すべき運命や虚栄のはかなさを思い起こさせる「ヴァニタス」(人生の虚しさの寓意)というジャンルがあった。とくに西洋美術の絵画を見慣れている人にとっては、国吉の単純なスイカの絵もまた、ヴァニタス画の強烈なメッセージを思い出させるものだろう。

スイカと黒人蔑視
もうひとつ、「スイカ」というテーマについて、アメリカでは見逃せない視点がある。
2019年5月、ボストン美術館を訪れていた中学生のグループが、入館時の注意事項として次のような言葉を聞かされた。
“No Food, No Drink, No Watermelon”(飲食とスイカ禁止)
通常は「No Food, No Drink, No Waterbottle」(飲食と水のボトル禁止)という決まり文句を聞く場面である。なぜスタッフはwaterbottleではなくwatermelonと言ったのだろうか。その中学生のグループには、わざわざスイカのことを言われる何かがあったのだろうか?
この言葉をかけられたのは黒人の中学生たちだった。そしてアメリカではスイカは黒人蔑視の典型的なシンボルである。スイカが黒人蔑視のイメージをもつというのは日本ではあまり想像できないが、アメリカでは、黒人はスイカに対して尋常でない食欲を示すという類型化された偏見がある。そのイメージは戯画化され、映画や印刷物に多用された。現在、そのイメージがおおっぴらにされることはないが、黒人差別のイメージとして根強く残っている。
ボストン美術館で、黒人中学生は自分たちは差別されたと感じ、引率の教師に伝えた。教師はこの出来事をフェイスブックに書き、問題が公にされた。美術館は第三者による調査を行い、事実を認めて謝罪した。アメリカのマスコミは、ボストン美術館および他の美術館で現在も黒人の来場者がどのような差別を実際に受けているか、たとえば黒人の来場者は白人の来場者に比べて作品に触らないように厳しく監視され注意される傾向にある、などと報道した。
アメリカで19世紀から続くスイカ=黒人というイメージ、それが21世紀になっても忘れ去られず残っている。美術館は多様な価値観を表現するはずの場所なのに、今もなお白人の崇高な美の殿堂として、飛び散るスイカの汁で汚されては困るのだという感覚がとっさに出てしまう。
国吉がこの絵を発表したのは1938年、その当時も、そして現在に至るまで、アメリカの人々はこの絵を見て黒人蔑視についての絵なのではないかと感じたはずである。
果物のなかでもとくにスイカだけを選んで描き、黒人蔑視について告発しているのではないかと思わせたのは、国吉が最初ではない。1890年、黒人の静物画家、チャールズ・イーサン・ポーターがスイカを描いてこの問題を提起した。現在はメトロポリタン美術館にあるこの絵には、乱暴に割られ、かぶりつかれたような果肉のスイカが描かれている。
国吉が1938年当時、ポーターのスイカの絵を見ていたかどうかはわからない。しかし白人にとっては、ポーターのような黒人や国吉のような黄色人種から、西洋美術=白人の文化の静物画の文脈を使って異議を申し立てられることには強烈なインパクトがあっただろう。
国吉はアメリカ画壇で実力を認められ活躍していたが、ニューヨークで生活するうえでは、日本人・有色人種に対する日常的な差別を受けることは茶飯事だっただろう。そして1937年には、画家としても「アメリカ市民ではない」という理由で、アメリカ政府によるアーティストへの公共事業を受ける資格を剥奪される。市民としてもアーティストとしても、人種を理由に差別されるという経験を、国吉は骨身にしみて味わっていた。
ポーターのスイカが、割られて食われていたのに比べて、国吉のスイカは「切られて」「さらされて」「見られて」いる。誰に見られているのか、というとそれは絵のこちら側にいるあなただ。
この絵を見ているあなたの人種は?それは誰かに差別される対象か、それともそうではないのか? あなたは何らかの市民権を持っているか?それは誰によって与えられているのか、あるいは奪われてしまったのか?あなたはそれに対してどういう立場をとっているか? 無自覚でいられるか、それとも問題だと思っているか?
この絵を、国吉はたびたび主要な展覧会に出展し、人の目に触れる機会を設けた。国吉は現実の自分の立場と合わせて「考えさせる」「問いかける」仕掛けをつくったといえる。この奇妙な西瓜の画面が、お前は何者だ?どういう立場をとるのだ?と問いかけてくる。

1 Wolf, The Artistic Journey of Yasuo Kuniyoshi Smithsonian American Art Museum
和訳は松本悠里による。
2 1944年8月24日の国吉康雄によるメモ。原文は英語。Yasuo Kuniyoshi Papers, Preliminary Notes for Autobiography, 1944 , Archives of American Art, Smithsonian Institute.
和訳は「国吉康雄美術館報8号」(1995年)より引用

A

Attacked Worm攻撃された芋虫

1951年 | カゼイン、板
更新日:2019.5.27

Same age

2018年、福武コレクションに新たに加わった作品。
晩年の国吉は、色鮮やかなカゼイン画を多く描いたが、この作品もそのひとつである。
しかし国吉はここで、色彩とは裏腹な奇妙なモチーフ、芋虫を描いた。芋虫は一見グロテスクだが、丸々として色も鮮やかで、生命感にあふれている。その反面、表面はやわらかくて非常に傷つきやすそうだ。芋虫は、うまくいけばこのままサナギに、そして蝶々に変身していくだろう。しかしこの芋虫がぶらさがっている枝は細くて短く、とても芋虫を支えられそうにない。
芋虫はこのまま死んでしまうのだろうか。タイトルの「攻撃された芋虫」は、そんな悲劇的な運命を示しているのだろうか。
生まれたばかりの弱い存在、これから美しく変身するはずの命が、外からの力によって絶えようとしている。この絵はそんな悲劇的な一場面であり、奇妙なタイトルと題材はこれがなんらかの大きな物語の一部だからだ、そんなふうに想像がひろがる。
国吉康雄は、この作品の前にも何度か虫を描いている。「少女よお前の命のために走れ」(Girl Run for Your Life )(1946)では大きなバッタとカマキリを、また他には、蝿をインクで画面いっぱいに描いた作品もある。
この「攻撃された芋虫」には、シリーズ作品ではないかと思われる「私の運命はあなたの手の中」(My Fate is in Your Hand)(1950)という作品がある。ここでは芋虫は、タイトルのとおり大きな手のひらに乗っており、バッタの成虫も見られる。人物を含めた抽象的な画面構成や謎めいたタイトルは何を意味するのか。「私」とは、芋虫であると同時に国吉自身なのだろうか、「あなた」とは誰なのだろうか。運命を左右する大きな、神のような存在、ということなのだろうか。
「少女よお前の命のために走れ」というタイトルにも「命」という言葉が使われている。国吉にとって虫という題材は、命について考え、表そうとするときのシンボルだったのかもしれない。

「私の運命はあなたの手の中」ネルソン・アトキンス美術館(アメリカ、ミズーリ州)
https://art.nelson-atkins.org/objects/21026/my-fate-is-in-your-hand

S

Same age同い年

1931年(昭和6年)、帰国時の国吉康雄 | 福武コレクション蔵
更新日:2019.3.25 執筆者:江原久美子

Same age

1889年(明治22年)、岡山で生まれた国吉康雄は、今年、生誕130周年を迎える。同じ年に岡山で生まれた人物としては、文筆家の内田百閒(1889-1971)、洋画家の坂田一男(1889-1956)、日本画家の小野竹喬(1889-1979)らがいる。彼らはそれぞれ別々の境遇で生まれ育ち、それぞれの意志で自分の道を選んだ。
明治時代、急速に近代化が進んだ日本では、毎年のように何らかの象徴的な出来事が起こったが、中でも明治22年という年は、大日本帝国憲法が公布され、全国で市制が敷かれて岡山も「岡山市」となり、フランスではエッフェル塔が完成し、パリ万国博覧会が開催された年である。国吉康雄や同年代の少年たちが生まれたのは、日本も世界も近代化、西洋化、工業化を突き進んでいた、そのひとつの節目といえる年だった。
少年時代の国吉康雄、内田百閒、坂田一男は岡山市の中心部に住んでおり、同じ時期に岡山高等小学校(のちの内山下高等小学校)で学んでいた。
高等小学校時代に彼らがどの程度お互いを知っていたかはわからないが、のちに1931年(昭和6年)、国吉康雄が帰国して東京や大阪で展覧会を開き、文化人たちに歓迎されたという新聞記事を、東京にいた内田百間が読んでいたら、国吉が小学校の同級生だったことを思い出したかもしれない。坂田一男はその10年ほど前からパリで画家として活動していたので、国吉康雄が1920年代に2度パリを訪れた際に、ニューヨークとパリでそれぞれ活躍する画家として会う機会があったかもしれない。
小野竹喬は笠岡に生まれ、14歳のとき京都に行き、日本画家の竹内栖鳳に弟子入りする。竹喬にとってほかの3人との直接の接点はなかっただろうが、彼もまた近代の芸術の世界で、新しい表現を求めて模索を続けた。
彼らが生きたは戦争の時代でもあった。5歳のときに日清戦争(1894)、15歳のときに日露戦争(1904)が起こる。その後も断続的に戦争は続き、1945年に第二次世界大戦が終わったとき、彼らは56歳になっていた。それぞれの事情により彼ら自身が戦地に行くことはなかったが、彼らの人生の大半は戦争の中にあった。彼らの(そして世界中の人々の)人生を根本から変えてしまっただろう戦争が終わったあとも彼らは創作活動を続け、それぞれの代表作を生み出していく。
同い年の彼らに、何らかの共通点・時代の精神といったものはあったのだろうか?
彼らはみなこうだった、とひとくくりにできる言葉は、実は見当たらない。彼らはそれぞれ独自の道を自分で探し、他の誰にも似ていない人生を歩んだ。逆説的だが「彼らはいずれも、彼ら自身の独自の道を歩んだ」という共通性はあるのだ。
彼らは、困難な時代に自分の独自性を徹底的に追求した。だからこそ彼らの芸術は現代に残り、現代の人々、とくに岡山の人々にとって重要な存在になっている。

R

Radio City Music Hallラジオシティ・ミュージックホールの壁画

1932年 | 壁画
更新日:2019.1.21 執筆者:江原久美子・才士真司

Radio City Music Hall

国吉康雄による壁画(ラジオシティ・ミュージックホール)撮影:才士真司

ニューヨーク・マンハッタンの中心部に、ロックフェラー・センターという、超高層ビルを含む複合施設がある。1929年の大恐慌のあと、大富豪ジョン・D・ロックフェラーが巨費を投じて建設したこの施設は多くの雇用を生み、また施設内を装飾するための壁画やレリーフ、彫刻作品などが大量に発注されたことで、当時のアーティストたちを経済的に援助する役割も担った。
ロックフェラー・センターには、ラジオシティ・ミュージックホールという大きな音楽ホールがある。1932年、国吉康雄はこの女性用化粧室に壁画を描くという仕事を請け負った。現在も残るその壁画は、四方の壁と、それに続く丸い天井全体でひとつの作品となっている。淡いピンクと空色を基調とした背景に大きな葉や花が描かれており、室内を訪れる人は自分が小さな虫か動物になって、空の下、植物の間にいるような視点を楽しむことができる。その優美な筆致からは、女性たちの、音楽や演劇の幕間を過ごす気分を盛り上げようという国吉の演出が伺える。
国吉は、発注者の意向や、この室内で過ごす女性たちの気持ちを想像したのだろう。彼はいつもキャンバスに描いていた画風とは異なったテーマ、筆致を選び、与えられた目的に合わせてこの壁画を描いた。国吉による壁画作品はほかにはなく、これが唯一のものである。
建物の壁や天井に直接絵を描く壁画は、古い時代から存在する。しかし20世紀になってからは、壁画は政治的なメッセージを強く伝えるための手段としても描かれるようになった。1910年代から20年代のメキシコでは、農地の解放や富の格差に対する庶民の反発が革命に発展し、この「メキシコ革命」の理念を伝える手段として壁画が盛んに描かれた。メキシコで始まった壁画運動はアメリカにも大きな影響をおよぼし、多くの画家が社会的な問題意識を人々に訴える手段として壁画を描いた。
ロックフェラー・センターにはメキシコ壁画運動の第一人者であるディエゴ・リベラも招かれ、RCAビル75階で壁画を描いた。このとき助手となったのがベン・シャーン、ジャクソン・ポロック、野田英夫らだった。国吉康雄とディエゴ・リベラたちは、ほぼ同じ時期に同じ場所で壁画制作に取り組んでいたのだ。
しかしリベラたちが描いた壁画は、公開を待たずに撤去されてしまう。壁画は人々の闘争を主題にしており、その中心近くに、様々な人種に囲まれ、その手を取るロシア革命の指導者、ウラジーミル・レーニンが描かれていたことが問題視されたのだ。
ロックフェラー・センターで制作されたこれらの壁画には、絵画がもつ二つの機能が象徴的に表れている。一つは国吉の壁画のように「絵を見る人の状況を想像し、見る人がそれぞれの感情を抱くように促すこと」であり、一つはリベラの壁画のように「理想を説き、社会を動かしていこうとすること」である。壁画という手法は、空間そのものを作品化し、見る人を包み込むことで、ときに大きなインパクトを与える。画家たちは壁画がもつ力を知り尽くし、それを人々に向けて投げかけていたのだ。

※自身も壁画制作の第一人者として活躍した野田英夫と、国吉康雄の二人展が熊本県宇城市不知火美術館で開催中です。ぜひご覧ください。

Exile Dream of Hope 国吉康雄と野田英夫

P

Fishing Village漁村の風景

1920年 | 油彩、キャンバス | 41.0cm×31.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2018.10.22 執筆者:江原久美子

Fishing Village

国吉康雄の絵は暗くてとっつきにくい、とよく言われる。この作品もその一つだ。美しい風景が描かれているわけではなく、面白い物語が隠されているわけでもない。だがこの絵に私たちが惹きつけられるとしたら、それはなぜだろう?
この絵が展覧会に出されることは少ない。地味な作品だが、実物を見ると色が美しいことに驚かされる。国吉の絵はいつもそうだ。暗い色なのに、透明で、輝いている。この初期の作品にもその特徴がよく出ている。
描かれているのは、いくつかの家と、その向こうに見える海と空だ。天気は曇りで、全体に陰気な感じがする。窓には誰かが顔を見せているが、黙って外を見ているようで、やはり暗い感じ。白い広場か道に面した何軒かの家が、ごちゃごちゃと重なっている。こんなに近くに建っているのに、ここに流れているのは冷たく、寂しい空気だ。
この絵を描いた1920年ごろ、国吉康雄はそれまで通っていた画学校、アート・スチューデンツ・リーグを辞め、画家として独り立ちしようとしていた。グループ展には出品していたが、画廊で個展を開くようになるのはこの翌年からのことだ。このころのニューヨークには、ヨーロッパから新しい美術が次々に入って来ていた。国吉たち若い画学生はそれらを貪欲に見つつも、そのまま真似するのではなく「自分独自の表現」をつくりだそうと試行錯誤を続けていた。
このころまでの国吉の作品を見ると、ルノアール風の裸婦、セザンヌ風の風景画や静物画など、先人が何をどのように表現しようとしていたかを、国吉が懸命に知ろうとしていた様子がうかがえる。この「漁村の風景」についても、他の画家がすでに似たような構図や雰囲気を描いていたかもしれない。だがそれでもこの作品は国吉康雄が、彼独自の世界を切り開きはじめた記念すべき作品だと言える。現実と非現実の間にあって、何かを象徴しているのかいないのか、どんなメッセージがあるのかよくわからない、この「わからなさ」が、この作品にはあり、それが国吉の作品を生涯つらぬいていくことになる。
人と同じようなものかもしれないな、と私はこの絵を見ていると思う。誰かを理解しようとしても、次々にいろいろな面が見えてきて一言では言えない。なんだか好きだ、とか、どうにも合わない、と思うのも、はっきりした理由があるわけではなく、ただその人がそこにいて、私がここにいるという「ただ存在している」と、お互いに違うなあと思うだけだ。
だけどとにかく、同じ時代をともに生きて、時間をかけてその人のことを考える。その時間が重なっていくと、相手は(好きだろうが嫌いだろうが)、自分にとってかけがえのない存在になっていく。
国吉の絵について考えるということは、それと同じようなことなのかもしれない。好きだろうが嫌いだろうが気になる存在であり、もしかすると、絵のほうも、それを見ている人々についていろいろなことを感じているのかもしれない。

P

Photograph国吉康雄の写真

「パーティー・ウッドストック国吉邸(4)」 | 1938年 | ゼラチン、シルバープリント | 18.4cm×24.1cm | 福武コレクション蔵
更新日:2018.8.15 執筆者:江原久美子

パーティー・ウッドストック国吉邸(4)

横長の白黒写真、そこに写っているのははっきりとしたストライプ柄の日よけと、その下でテーブルを囲み、思い思いの格好でおしゃべりしている人々だ。14〜5人くらいが、晴れた日のガーデンパーティーを楽しんでいる。庭には何本かの木があり、遠くには山が見える。皆くつろいだ様子で、カメラに視線を向ける人は誰もいない。
1938年のある日、国吉康雄はウッドストックの別荘でパーティーを開き、画家仲間や画廊主など知人友人を招いた。この日、彼は愛用のライカで写真を撮り続け、「パーティー・ウッドストック国吉邸」と名付けた写真を20枚も残した。それらは記念写真でも記録写真でもなく、まして構図や光を考慮したアート作品でもなく、素朴な、ただそのとき見えたものをふと切り取っただけというスナップ写真である。
1935年、国吉は35mmフィルムの小型カメラを買い、どこに行くにも持ち歩いた。結婚したばかりのサラとのメキシコ旅行、友人たちと行ったコニーアイランド、マサチューセッツでの海水浴、学生たちとのピクニック、ウッドストックで休暇を楽しむ家族や友人たち、アトリエの窓から見えるユニオンスクエア、ニューヨークで開かれた万国博覧会、メーデーのデモ行進・・・。どの写真からも、国吉と、写っている人々の楽しい気分が伝わってくる。それらは公表するつもりのないプライベートな写真であり、あとで誰かに何かを伝えるためではなく、撮影しているそのとき、写す人と写される人が仲良くなるためのものだったのだろう。私たちは国吉の写真をとおして、彼が生きていた時代の空気感も感じることができる。1
一方で、国吉の写真には日常のスナップというには奇妙なものも多数ある。打ち捨てられた廃墟、非現実的に組み合わされた静物、女性のヌード・・・、国吉の絵画作品にたびたび登場するモチーフだ。だが国吉は、写真をもとに絵画を制作したわけではない。ただ、自分は何に興味があるのかを確かめようとしているようだ。
そう、私たちは国吉の写真を見るとき、彼の絵画制作のもっと前段階にある、目で見て心の中に取り込む前の、視覚のタネのようなものを感じることができる。モチーフになりそうで気になるもの、こうやって構図を切り取るといいのではないかというアイデア、流行の写真の様式を真似してみたもの、絵画作品としては描かないが、印象派や東洋趣味の構図をためしてみたもの・・・。彼はライカを使って、自分の視覚を試したり確かめたりする実験をしていたのだろう。
彼は1935年から1939年にかけて集中的に写真にとりくんだ。ヨーロッパで第二次世界大戦が始まった1939年、写真が趣味だと言い続けることに困難を感じ2、彼は写真をやめた。1941年の真珠湾攻撃後は敵性外国人とされ、彼のライカは警察に一時没収された。
国吉が撮り、現像した写真は、後年1980年代になってサラ夫人によって公表された。それらの写真は、国吉が感じていた、ものを見ることを楽しむという純粋な喜びを私たちに伝えてくれている。

1国吉康雄が残した写真は約400点。そのうちの約半数が福武コレクションに含まれている。
2“Telling Tokio, The Talk of the Town,” The New Yorker, 18, March 28,1942, P17

C

Caseinカゼイン

「安眠を妨げる夢」 | 1948年 | カゼイン、石膏パネル | 50.8cm×76.2cm | 福武コレクション蔵
更新日:2018.5.15 執筆者:江原久美子

安眠を妨げる夢

国吉康雄はさまざまな技法を使って絵を描いた。鉛筆やインクでの線描、リトグラフなどの版画、数は少ないがパステル画や水彩画もある。メインとなるのはやはり油彩画だが、1930年代後半から1940年代にかけて積極的に取り組んだのがカゼイン画である。「私は油彩の次にカゼインが好きだ」と彼が書き残した手記が残っている。
カゼインとは、牛乳から抽出したタンパク質の一種で、食品として利用されたり、固めてプラスチック状の素材として使われたりする。このカゼインを顔料(がんりょう)と混ぜたものが、カゼイン絵の具である。
ラピスラズリという青い鉱石や、酸化鉄の赤い色を利用するベンガラ、またさまざまな化学物質など、色のついた物質を粉末にしたものを顔料といい、顔料を画面(紙や布など)に定着させるために糊状のものと混ぜたものが絵の具である。顔料を油と混ぜると油絵の具、膠(にかわ)と混ぜると日本画の絵の具、卵黄と混ぜるとテンペラ絵の具になる。画家が自分で絵の具をつくる場合もあれば、市販されているものを利用することもある。カゼインに関しては、国吉は、チューブに入った市販の絵の具を使っていたようだ。
吉がカゼインを使って描いた作品には「安眠を妨げる夢」「少女よ お前の命のために走れ」などがある。鮮やかでありながら深みのある色合い、繊細な描きこみ、マットな表面の感じは、同時期の国吉の油彩画(たとえば「ミスター・エース」や「鯉のぼり」)と共通しており、一見しただけでは画材の違いを区別するのは難しい。
「私はカゼインを継続的には使わない。私は絵画制作の合間に自分をリフレッシュさせ、刺激してくれるものとしてカゼインを使う。」
と国吉は書き残している。
「カゼインは、私が油彩画を描く中で次の段階に行く方法を探そうと実験しているときに役立つ。実のところ私は、ひとつのメディウム(画材)の中での探検が、ほかのメディウムの中での発見につながることを知っている」
国吉にとってカゼイン画の制作は、油彩画制作のための重要な実験だったのだ。
では国吉に刺激を与えたカゼインの特徴とはどのようなものだったのだろうか。国吉自身の言葉から探ってみよう。

1 乾きが早い

「(油彩画において自分は)それぞれの状態から次のステップに進むために徹底的に乾かす。私はこれを何度も繰り返す。カゼインにおいて、私は同じやり方を踏襲する。」
国吉は、油彩画でも絵の具を徹底的に乾かしてから次に進んだようだが、カゼインは油彩画よりもずっと早く乾く。画面に塗って数分もするとすっかり乾き、他の色をその上に塗り重ねることが可能だ。

2 水に溶けやすい

「私はドローイングも色も変えたいとき、必要ならば土台の表面まで洗い流す。」
この、洗い流すという言葉は比喩ではない。カゼインはとても水に溶けやすく、画面に塗ったあとでも、文字どおり水で“洗い流す”ことができる。一度塗ってすでに乾いた部分も、もう一度水を含ませれば簡単に色を拭き取ることができるのだ。

3 マットな質感

「私はこの特異なメディウムの特徴である特異なマットな表面が好きだ」
マットな表面という特徴は「ミスター・エース」などこの時期の国吉の油彩画にも現れている。この乾いた感触は、文字通り湿っぽい感傷を突き放すような効果を生んでいる。

国吉は生涯にわたって、ひとつの画風に安住することなく、何を描くか、どう描くかを探求し変化し続けた。20世紀、めまぐるしく変わる世界の中で、根底から深く感じ、考え、人々に伝える、そのためにはどうしたらよいのかを多くのアーティストが、そして国吉康雄も模索しつづけた。国吉にとっては、時に画材を変えながら創作を続けること、それが模索のひとつの手段だったのだろう。
現在、カゼインという画材は、扱いが難しいせいか、ほとんど使われていない。しかし国吉の画業を考えるうえで重要なこの画材について、2014年には広島市立大学芸術学部美術学科油絵専攻641諏訪敦研究室による「模写プロジェクト」が行われ、2017年からは岡山大学教育学部国吉康雄教育研究寄付講座にてカゼインワークショップが継続的に行われている。カゼインという画材をとおして国吉はどのようなビジョンを得ようとしていたのか。それを徐々にでも知る手がかりになればと考えている。

i 本稿のすべての引用は次の資料による。
Kuniyoshi, Yasuo. "His method of making a casein painting"
In: Blanch, Arnold ”Methods and techniques for gouache painting" New York: American Artists Group, 1946. pp. 45-46, ills. pp.54-55
原文は国吉による英語(本稿の和訳は江原)。

F

Fukutake Collection福武コレクション

「化粧」 | 1927年 | 油彩 | 91.5cm×76.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2018.3.30 執筆者:江原久美子

化粧

このコラムで紹介してきた国吉康雄作品は、すべて「福武コレクション」のものである。福武コレクションとは「福武總一郎氏が所蔵する、国吉康雄作品および資料」のことで、絵画、版画、写真、遺品など計600点以上をかぞえる。国吉康雄のまとまったコレクションとしては日米合わせて最大級のものである。2015年、スミソニアン・アメリカン・アートミュージアムで開催された国吉康雄回顧展には、出展作品66点のうち15点が福武コレクションから貸し出され、存在感を示した。

はじまり
福武コレクションは、いつ、どのようにして始まったのだろうか。それは1970年代の岡山にさかのぼる。当時、福武書店(現ベネッセコーポレーション)の社長であった福武哲彦氏が、1979年に国吉康雄の「化粧」という作品に出会い、購入したのが始まりとされる。哲彦氏は「感傷的な味わいのある抒情に魅了され」「哀愁を漂わせた画風に深い共感を覚え」たとされ、同社はこのころ「二人の赤ん坊」や「自画像」「水難救助員」「休んでいるサーカスの女」などを次々に購入している。
哲彦氏自身の言葉によると「私共が収集を始めた動機といえば、私の個人的な趣味もさることながら、いささか郷土岡山の文化の向上にもお役にたちたいし、また、教育出版という社業にも何等かの形でプラス効果があると信じたからである」と述べ、また収集方針のひとつとして「岡山の生んだ国際的な画家国吉康雄をメインにワールドワイドな収集をする」としている。
岡山で創業した福武書店はこのころ事業を拡大し、国際的な展開も視野に入れていた。哲彦氏にとって国吉康雄は、岡山から世界へ、という志をともにする心強い先達だったことだろう。

考えさせるアート
福武書店が収集した美術作品は、社屋の廊下や執務室に展示され、社員が日常的に目にするものだった。また、社内に展示した状態で地域の人々を招待する日を設けたり、岡山の百貨店 天満屋をはじめ全国に巡回する展覧会に出展されたりしていた。
哲彦氏や社員にとって、国吉康雄の絵画は「壁にかかった綺麗な絵」以上のものだっただろう。「何が描いてあるのだろう」「自分は、この絵にはこのような意味があると思う」など日々感じるところがあったのではないだろうか。時には、絵の前で対話が繰り広げられることがあったかもしれない。
哲彦氏の遺志を継いだ福武總一郎氏は、1990年、社屋内に「国吉康雄美術館」をオープンさせた。そしてほぼ同時に香川県直島での現代アートのプロジェクトを始める。總一郎氏は後年「国吉康雄は、一見、直島とは異質なものに思われるかもしれませんが、時代と社会の中で自らの道を探し出し信念を貫いた彼の作品は、今も見る人に対して、あなたはどう生きるのか?と問いかけてきます。アートというものがこれほどまでに考えさせる力を持つということを私は国吉の絵画によって知り、それが直島でのアート活動を始める出発点となりました。」と語っている。見る人に「考える」ことを促す国吉作品の力、それが直島のアートの原点となったのだ。

現在、これから
「国吉康雄美術館」は2003年に閉館し、作品・資料は福武總一郎氏がベネッセコーポレーションから買い取った上で岡山県に寄託され、現在は岡山県立美術館で随時公開されている。また、スミソニアンでの展覧会と同様、国内でも、国吉康雄に関する展覧会に積極的に出展されている。
2015年、岡山大学教育学部に「国吉康雄研究教育寄付講座」が設置された。福武コレクションを活用した国吉康雄の研究と教育の可能性は、美術の範囲にとどまらず、より幅広い分野、つまり近代の社会、政治、思想、広範な文化、教育といった分野に広がる。同講座では学生とともに試行錯誤しながら、活動を続けている。国吉はいまも、今を生きる人々を考えさせ続けている。

L

Lithographリトグラフ

「綱渡りの女」Tightrope Performer | 1936年 | 石版リトグラフ | 32.7cm×22.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2018.1.26 執筆者:江原久美子

Tightrope Performer

リトグラフは、別名「石版画」といい、石の板を使う版画のことである。たとえば木版画や銅版画では板の表面を彫って原版をつくるが、リトグラフでは、石の板(または金属の板)に、鉛筆やクレヨンなど油分を含む画材で図柄を描き、板の表面を化学的に加工して、描いた線の部分にのみインクが付く状態にする。これによりリトグラフには、元の線の濃淡や筆致を非常に繊細に紙に写しとれるという特徴がある。
国吉康雄は、画家として活動し始めていた1922年にリトグラフの技法を覚え、その後も制作を続けた。
国吉康雄のリトグラフには、どのような特徴があるのだろうか。
たとえば国吉康雄の油絵では、彼が感じたこと、考えたことが複雑に組み合わされ、現実にはありえないような抽象的な情景が描き出されている。または長い時間をかけてイメージを心の中で練り上げた女性像もあり、いずれも画家の精神が濃密に込められた、重みのある絵画である。
それに対してリトグラフでは「テーブルの上の果物」「窓辺の花」「カフェでくつろぐ女」「サーカスの演者」など、つまり国吉の絵にはおなじみのモチーフが描かれながら、油絵のように複雑に組み合わされたり不安定なバランスをとったりすることはなく、彼が見たシーンが写真のように切り取られ、そのまま作品として描き出されている。
国吉にとって油絵という手法がメインで、リトグラフはサブだったというわけではない。彼はリトグラフについてこう語っている。
「ひとたび作品が創り出されたら、それは決して繰り返されることはない。私の作品はたとえメディアが違っていても、決して同じ主題を繰り返したことはない。私は、各々の主題は、形やつり合いが注意深く考慮されるのと同じように、これと決めたメディアで制作されるべきであり、それは独立した作品となるべきである。」i
そして彼はこのようにも述べている。
「私はリトグラフは人々と直接触れ合うことが出来るメディアであり、重要だと考えている。オリジナルでありながら安価であり、そのことは、より多くの人々とのコミュニケーション・アートを意味するからである。」
1枚の原版から複数を刷ることができるリトグラフは、(油絵に比べれば)安価で、より多くの人々が買い求めることができるものだっただろう。そして国吉のリトグラフを買った人は、自宅のリビングルームや寝室に飾って毎日眺め、生活の中のやすらぎとしていたことだろう。
1930年代のアメリカでは、アートについての考え方として「見る人が自らの考えや経験から照らし合わせて、作品について思いを巡らせる。そして考えたことを共有する(ときには制作したアーティストとも)というやり方でアートは形作られていくのだ」という考え方が提唱され、社会の中で大きな流れとなっていた。国吉康雄のコメントも、このような社会の流れの中で語られたものだろう。
この頃、世界恐慌後のアメリカでは大量の失業者を救うため公共投資によって雇用を増やすという政策がとられた。その一環として設けられた「連邦美術プロジェクト」により、アーティストが公的な資金を得て作品を制作したり、コミュニティ・アート・センターを設立し、そこでアーティストがワークショップを行い、人々にとってのアートの学びの場になったりした。ここでも上記の「人々の経験によってアートは形作られる」という考え方がとられていたのだ。
連邦美術プロジェクトが、国吉康雄に依頼したのはリトグラフの制作だった。「綱渡りの女」はこのとき制作されたものである。
連邦美術プロジェクトは、アーティストが制作した作品を、主に学校に配布した。学校に配られた国吉のリトグラフ、また画廊を通して家庭に売られたリトグラフは、生活のなかで人々が見て感じ、話し合うという経験を得て、それぞれが「アート作品」となっていったことだろう。

i 国吉康雄「リトグラフについて」小沢律子訳「国吉康雄美術館 館報 No.4 」1993年7月掲載。(原文「スミソニアン・インスティテューション・アーカイヴス・オブ・アメリカン:アート所蔵の国吉康雄未発表エッセー(英文)」

L

Landscape with Two Dogs二匹の犬のいる風景

1945年 | 油彩、キャンバス | 27.0cm×47.0cm | 福武コレクション蔵
更新日:2018.1.26 執筆者:江原久美子

Landscape with Two Dogs

国吉康雄は、彼の作品の中にさまざまな動物を描いた。牛や馬、ロバ、鶏、虫・・・そしてここでは、犬。草がまばらに生えた、乾いた土の斜面に犬が二匹いる。右側の茶色い犬は、左側の白い犬に対して挑みかかろうとしているような姿勢をとっている。やせこけていて、表情もするどい。白い犬の方は恐れをなして逃げようとしているようだ。
背景には二つのまるい頂上のある茶色い山と、灰色と白の曇り空が描かれている。暗い背景に、不穏な動きの犬たち。どうにも落ち着かない感じがする。
もしかすると、茶色い犬のほうは白い犬に対して別に敵意を感じているわけではなく、友達になろうと近づいているのかもしれない。でもその気持ちは白い犬に通じていない。二匹の犬の思惑はすれちがい、お互いを理解したり共感したりすることができない。
この絵が描かれたのは1945年。第二次世界大戦が終わり、世界がようやく平和を取り戻した年である。しかしそれは同時に、東西冷戦の始まりでもあった。世界中の人間が敵と味方に分かれて徹底的に殺し合い、その戦いが終わってもすぐに次の覇権をあらそって、ふたたび戦いが始まっていた時代。
この絵は、そんな世界の状況をあらわしているのだろうか。おそらく国吉康雄がこの絵を発表した当時の人々も、そのように思っただろう。人間たちが、世界をふたつにわけて陣営を組み、お互いを責め合って対立している。それと同じように、この二匹の犬もお互いを理解することができず、すれちがう。この不毛な、荒れ果てた土地で。
どうにも救いのない、活路の見出せないような絵だが、しかしこの絵を実際に見る人は、その色と筆致の美しさに驚くだろう。2015年のスミソニアン・アメリカ美術館での国吉康雄回顧展に出展されたこの絵は、貸し出しの前に、長距離の輸送に備えて入念な保存修復が行われた。その際、表面に塗られていたニス(後年、当時の保存技術として施されたもの)が現代の技術によって除去され、国吉が描いた当時の画面が表れたのだ。そこには、茶色や灰色や緑色といった暗い色調が使われながら、透明で奥行きのある、輝くような画面が作り出されていた。すでにアメリカ画壇の頂点に立っていた国吉が、その感性と技術を使って描いたのは、自分が生きている救いようのないような世界だったのだ。
暗い世界を暗いまま、そして同時に、美しく描く。複雑なものを複雑なまま描き出し、それを他の人に伝えることができる。そのような知性や感情を、人間は備えている。この絵には確かにそのことが感じられる。人間は救いようのない存在だが、一方でこのような美しいものを生み出す。絶望の中にも、希望が見える。どうしようもない人間の、複雑で美しい一面が、ここには表れている。

T

To the Ball舞踏会へ

1950年 | カゼイン、石膏パネル | 50.5cm×35.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.12.22 執筆者:江原久美子

To the Ball

題名にある“Ball”とは、西洋における正式なダンスパーティーのことだ。華やかな社交的特色の強い正式なもので、招待された男女は燕尾服やイブニングドレスを着て出席するという。
国吉康雄がこの絵を描いた1950年ごろ、ニューヨークでそんな舞踏会へ行く機会があったのだろうか。
国吉の年譜を見ると、1948年、ニューヨークのホイットニー美術館で国吉康雄の回顧展が開かれている。アメリカ美術を顕彰・展示するホイットニー美術館は当時、「すでに亡くなったアーティストについてのみ、回顧展を企画する」という方針を持っていた。その方針を変えてまで、国吉康雄の回顧展を開いたのだ。
そのオープニングパーティーの写真を見ると、会場を埋め尽くす出席者たちの中央に、国吉康雄と妻のサラが座っている。舞踏会ではなかったかもしれないが、まさに華やかな社交の場であり、国吉にとってはおそらく一生のうちで最も晴れやかな、誇らしい日だっただろう。
一方、国吉はこのような手紙を日本の知人に送っている。
「(ホイットニーの回顧展では)自分のハラワタをウォール(壁)に掛けているようだ」。
画家が全身全霊をこめて描く絵画。彼の苦しみも、ユーモアも、欲望も、理性も、そこに表されている。そのようにして一生をかけて描いた作品たちが、大きな美術館に一堂に並べられている。画家にとって、それは体内を公衆の前にさらけだすようなものだっただろう。
壁に掛かっている作品は、表も裏もない自分自身だ、それに比べてパーティーに出席している生身の自分は、社交的な顔でその日の主人公を演じている・・・確たる記録はないが、その日の国吉の気持ちはそのようなものだったかもしれない。
この絵には、舞踏会へ行くために何重にも衣装をまとい、道化の帽子をかぶった人物が描かれている。男か女かもわからないし、まるで両腕を縛られているような不自由そうな格好だ。国吉の絵画に描かれる人物は、しばしば「国吉自身なのではないか」と言われる。自画像はもちろんそのほかの絵でも、男が描かれていても女が描かれていても、それは彼自身なのではないかと。
この作品もまた、本当の姿を見せない―が、その中に確実に存在している―画家自身を表しているのかもしれない。

本作品は、和歌山県立近代美術館での特別展「アメリカへ渡った二人・国吉康雄と石垣栄太郎」平成29年10月7日(土)―12月24日(日)に展示中です。

T

Two Babies二人の赤ん坊

1923年 | 油彩、キャンバス | 76.2cm×61.0cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.11.15 執筆者:江原久美子

Two Babies

二人の小さな子どもが描かれている。
左側の子どもはオレンジ色のワンピースを着て、手に白い小鳥のおもちゃを持っている。女の子の服装だが、顔は全然女の子っぽくない。
右側にはおむつを着けた赤ちゃんが座っている。この子も赤ちゃんらしくない硬い表情で、画面の外の何かを見ている。
二人とも顔や胴体は丸々としているのに、手や足は不自然に小さい。こんな小さな足で立っていられるのだろうか。
子どもたちの頭上には緑色の大きなベルと、赤と緑のリボンが見える。これには何か意味があるのだろうか?
・・・ほかの国吉康雄の絵と同様、これも「何が言いたいのか分からない」絵である。二人の子どもを目の前にして描いたにしてはあまりにも不自然だが、不安や不快な感じはしない。なぜかとても惹きつけられる絵で、ずっと見ていても飽きない。
1920年代前半、国吉康雄はこの絵の他にも小さな子どもをたびたび描いた。後年の手記に、彼はこう書いている。
「人は、赤ん坊は美しいと思っているが、私はそうではないと思ったし、だからこそ赤ん坊ばかり描いたのだ。」1
「美しいとは思わないものを描く」とはどういうことだろうか。なぜ、国吉はそんなことをしようと思ったのだろうか。子どもは無垢な存在だと言われるが実は醜いのだ、とでも言いたかったのだろうか?
だれもが「赤ちゃんは可愛い」と言う。その中で、国吉は赤ん坊を全然可愛くなく、しかしとても魅力的な絵を創りだした。
この絵には、「美しさ」も「醜さ」も描かれていない。そのような、現実の世界で人々が見たり感じたりしていることを映し出しているのではない。
人々がまったく自然に感じている「赤ちゃんって可愛い」という気持ちを引っくり返して「赤ちゃんが可愛いのではなく、自分の絵が魅力的なのだ」というステージで、国吉は勝負したかったのではないだろうか。
人間は何万年も前から絵を描いてきた。それは何のためだったのだろう。
目の前にいる人やものを写し取ったり、宗教的な祈りの気持ちをこめたり、昔からの物語を描いて伝えようとしたり、自分の心の中にある風景や感情を形にしてみたりして、人間は膨大な量の絵を産み出してきた。
そして20世紀、画家たちは「何かを伝えるための手段ではない」純粋な絵画とは何か、を考えるようになった。他のもののためではなく、絵そのものに意味があり存在している、それはどういうものだろうか?画家たちは試行錯誤をくりかえし、その目まぐるしい変化がそのまま20世紀のアートの潮流となった。
国吉康雄もまた、「何かを伝えるための手段ではない、絵そのものとして存在する」作品として、これを示したのではないだろうか。彼は具象的なものを描きながら、全く別の次元を見ていたのだ。

1 “East to West.” Magazine of Art, vol.33.no2 (February,1940)より。原文は英語(江原訳)

本作品は、和歌山県立近代美術館での特別展「アメリカへ渡った二人・国吉康雄と石垣栄太郎」平成29年10月7日(土)―12月24日(日)に展示中です。

G

Girl Wearing Bandanaバンダナをつけた女

1936年 | 油彩、キャンバス | 86.8cm×64.3cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.10.16 執筆者:江原久美子

Girl Wearing Bandana

女の人がひとり、籐椅子に寄りかかって両手でほおづえをつき、片方の手には煙草を持っている。顔はうつむきかげんで表情はよく見えない。悲しそうな感じでもあるし、何かをじっと考えているようにも、少しほほえんでいるようにも見える。頭に巻いた赤いバンダナが首の横から垂れ下がり、片方のひじの下に敷かれている。彼女が身につけているのはこのバンダナと、腰に巻いたピンク色の布───スリップか何かだろうか?───だけである。
彼女の肌の色はグレーがかかったブラウン、でも白や黄色も混ざった、とても微妙な色合いだ。そしてその肌とほとんど同じ色が、背景にも塗られている。
1930年代、国吉康雄はこのような柔らかな色合いの、ものうげな表情の女性像を数多く描いた。特定の女性を描いたのではなく、何人かのモデルをデッサンしたのち、半年ほど経ってから油彩画に取り掛かったと本人は語っている。女性たちのイメージを心の中で混ぜ合わせ、「ユニヴァーサル・ウーマン(普遍的な女、理想の女)」を描いたのだ、と。
彼女はどんな生活をしているのだろう。どこに住み、どんな仕事をしているのだろう?彼女の顔や身体の表情からは、家や男や組織に守られているという感じがしない。この人は自分の頭と身体をつかって働いて稼ぎ、世界の中でひとり、身を立てている人なのだろう。社会の中では弱い、でも人間としては強い、何十年も前のアメリカにいた女性を今も私たちはここに見ることができる。
こういった人を、自分が思い描く夢の女とした国吉康雄。彼もまた、世界の中でひとりの人間として、自分自身の力で生き抜いた。この女性は、彼の「同志」といえるのだろう。

本作品は、和歌山県立近代美術館での特別展「アメリカへ渡った二人・国吉康雄と石垣栄太郎」平成29年10月7日(土)―12月24日(日)に出展されます。

S

Self Portrait自画像

1918年 | 油彩、キャンバス | 51.0cm×41.0cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.09.15 執筆者:江原久美子

Self Portrait

一人の男性の上半身が描かれている。国吉が、画家としてはごく初期の29歳のときに描いたもので、「自画像」というタイトルがついている。
丸く白い帽子、丸く黒い眼鏡、口ひげ、黒い蝶ネクタイ、白いシャツ。目や眉は黒く、ほほ骨が張り、顎は細い。肩はがっしりしておらず、なで肩である。アジアから来た青年が、西洋の服装に身を包んでいる。
彼の背後には、窓か額縁のような四角いものの一部が見える。そのほか背景には何もない。ただ彼が硬く口を結んでじっとこちらを見ているのだが、その彼も、写真でいうならピントがぼけているような、もどかしい感じである。
彼の左目はこちらを見ていて、目が合う。右目は小さく描かれ、どこを見ているかわからない。そういえば顔の形も、肩に入っている力も、左右でかなり違う。
この人物をタテに半分にわけて、右半分と左半分を見てみよう。向かって右側では、少し緊張した感じの若者がこちらを見下ろしている。眉はつりあがり、肩が張っている。その背後の壁に、窓か額縁が見える。
向かって左側は、目を細めて遠くを見ているような、悲しそうな目つきをしている。口は、端が下がり苦しそうだ。肩を落とし、蝶ネクタイもだらりと垂れ下がっている。まるでくたびれた老人だ。
右半分の青年は、「アメリカで画家になろう」という意欲をもつ当時の国吉康雄だろうか。だが左半分の老人は? たった一人で移民としてアメリカに渡り、何年も右往左往して疲れ果てた彼自身なのだろうか。画家として成功するかどうかわからない不安定な将来の自分なのか。それとも故郷に置いてきた父親なのか。あるいはアメリカで苦労を重ねている多くの日系人たちなのだろうか?
いずれにしても、全くの他人ではなく、国吉と密接なつながりのある人である。画家として歩もうとしている若者と、翻弄され疲れ果てた老人。国吉の中には、二人の人物がいる。彼の絵はいつも一筋縄ではいかない二面性を含んでいる。それはすでに最初から、彼自身が相反する複雑な内面をもつ人物だったからなのだろう。国吉康雄はこのあと生涯にわたって、彼自身の心の中と、彼の目に見えるものがないまぜになった独特の絵画を描き続けていく。それらは、静物や女性や風景を描きながらも、常に彼の自画像だったのかもしれない。

本作品は、和歌山県立近代美術館での特別展「アメリカへ渡った二人・国吉康雄と石垣栄太郎」平成29年10月7日(土)―12月24日(日)に出展されます。

M

Mother and Two Children戦争ポスターの習作(母と二人の子ども)

1943年 | 鉛筆、紙 | 53.3cm×40.6cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.08.16 執筆者:江原久美子

Mother and Two Children

軍服を着た子どもが、着物姿の女性の手をとり、右手が指さすほうへ行こうとうながしている。女性はそちらをじっと見ているが、膝を曲げて腰を引き、行きたくない様子である。もう一人の子どもが彼女に背負われているが、その子どもも軍服を着て羽根つきの軍帽をかぶり、手には旭日旗、つまり日本軍の旗を持っている。二人の子どもの顔は見えないが、女性の横顔はけわしく悲しそうな表情だ。
国吉康雄はこのような場面を実際に見たのだろうか。それとも何かの象徴としてイメージしたものを描いたのだろうか。
実際に見た場面だとすると、国吉が一時帰国したときのことだろう。国吉が帰国したのは1931(昭和6)年10月、その直前に満州事変が起こり、日本各地で兵士が出征していた。これは出征を見送っている家族なのかもしれない。子どもは兵士となる父親を勇ましくて誇らしいと思っているが、子どもたちの母(あるいは、高齢のようにも見えるので祖母とも言われる)は、夫の先行きと、残される自分たち家族の将来を案じ、悲観する表情を見せている。
あるいはこのようにも考えられる。この女性の着物は黒一色で、まるで喪服だ。彼女の夫(あるいは息子)はすでに戦死し、その遺骨を受け取るところなのかもしれない。子どもたちが儀礼的な服装なのはそのためだろう。子どもたちは無邪気だが、彼女は現実を受け入れがたく、足が前に進まない。
どのような状況だったのかはわからない。だが彼女の表情や体の動きを見ていると、彼女が戦争に対して抱いている悲しみ、辛さ、憎しみ、悔しさが伝わってくる。
国吉は、帰国から約10年後にこの絵を描いた。彼は日本で実際にこのような場面を見たのだろうか。しかし写実だとしても想像だとしても、ここに表されているのは、彼自身が強く感じた事実だろう−−−戦争が、兵士ではない女や子どもたちに対して、いかに過酷なことを強いるか、いかに辛い感情を起こさせるか、ということだ。
国吉康雄は1941年(昭和16)の日米開戦によって「適性外国人」という立場に置かれたが、他の多くの在米日本人とは異なり、日本には帰らなかった。若くして単身でアメリカに渡り、アメリカの自由と平等を重んじる理念の中で、周囲の人々に助けられ人生を切り開いてきた国吉は、アメリカに忠誠を誓い、アメリカの画家として活動を続けたのである。
当時、アメリカ合衆国の機関である戦争情報局(United States Office of War Information)は、日本との戦争の正当性を強調し、アメリカ人の戦意を高揚させるためのポスターを描くようアメリカ国内の画家に依頼した。国吉康雄もその仕事を引き受け、日本軍の残虐さを訴える下絵を何十枚も制作した。ここに挙げた作品もそのうちの一点だが、この絵に表されているのは日本への敵意というよりも、さらに普遍的な主張——戦争そのものに対する抗議、平和を願う気持ちである。
当然ながら、この絵は戦意高揚ポスターには採用されなかった。おそらく国吉自身もこの絵が採用されるとは思っていなかっただろう。それでもひとつの作品として完成させずにはいられなかった国吉の反戦への強い思いが伝わってくるようだ。

S

Sara Mazo Kuniyoshiサラ・マゾ・クニヨシ

「サラ・クニヨシ(3)」1938年 | ヴィンテージ・ゼラチン・シルヴァープリント | 23.4cm×26.2cm | 撮影:国吉康雄 福武コレクション蔵
更新日:2017.07.14 執筆者:江原久美子

サラ・マゾ・クニヨシ

この女性は、国吉康雄の妻 サラである。彼女は、カメラをもつ国吉のほうを見て微笑んでいる。日常のスナップというより、少しかしこまったポートレイトという感じだが、表情はおだやかで、リラックスしている。
背後の壁にいくつか重なって映し出されている影は、彼女の内面を象徴しているようだ。サラはどんな人だったのだろう。優しくて、でも芯の強い人だったのではないか・・・。このように、見る人に想像させること、それこそが国吉康雄のたくらみだったのではないだろうか。この写真を見る人は、彼女の顔立ちだけではなく内面の美しさを思わずにはいられない。控えめな写真のようでいて、国吉は、妻がいかに魅力的な女性であるかを大いに主張している。
サラ・マゾは、1935年に国吉康雄と結婚した。サラが25歳、国吉が46歳のときである。夫がそうであったように、彼女もまた、20世紀のアメリカにおいて、自らの意志で選び取った人生を生きた。
1910年7月4日、アメリカ独立記念日にニューヨークで生まれたサラは、当時最先端だったモダン・ダンスのダンサーとして、またオフ・ブロードウェイの舞台女優として活動していた。1932年、公演先のウッドストックで演出家が売上を持ち逃げするという事件が起こり、急きょお金が必要となったため、舞台の背景を描いていた画家の紹介で国吉のモデルを務めたことが、サラと国吉との最初の出会いとなった。
結婚後、サラは舞台の仕事をやめ、1941年からはニューヨーク近代美術館(MoMA)でアシスタントとして働き始めた。戦争や、国吉の看病などにより何度か中断したものの、同館の作品登録部門や写真部門、絵画・彫刻部門で1975年まで働き続けた。後年、同館が彼女に対しておこなったインタビューでは、内部のスタッフとして見ていたMoMAの姿が生き生きと語られている。
退職後、サラは、自分に残された国吉の作品や資料を管理し、必要に応じて国吉に関する助言を行った。日本にも何度か訪れ、岡山の人々とも会っている。彼女をとおして国吉康雄を身近に感じた人も多いことだろう。彼女は、国吉がアメリカで評価された画家であることを常に言及しつつ、「日本においても評価が高まっていることは、二重にうれしいことです」と述べ、1990年の「国吉康雄美術館」(注1)開館にも協力した。このとき彼女が寄贈した国吉の遺品——イーゼルや机、画筆など——は、今も「福武コレクション」(注2)の重要な構成要素となっている。
サラ・マゾ・クニヨシは、多くの人々と交流を続け、2006年にニューヨークで亡くなった。いまはウッドストックのアーティスト墓地で国吉康雄とともに眠っている。

注1: 国吉康雄美術館
1990年、岡山市のベネッセコーポレーション(当時は福武書店)本社ビル内にオープンした美術館。
同社が所蔵していた国吉康雄作品および資料を展示・公開した。2003年、閉館。

注2: 福武コレクション
ベネッセコーポレーションが収集・所蔵していた国吉康雄の作品と資料は、2003年、福武總一郎によって一括購入の上、「福武コレクション」として岡山県立美術館に寄託された。絵画、版画、写真、遺品など計600点以上の規模で、国吉康雄のものとしては世界最大のコレクションのひとつ。

参考
The Museum of Modern Art Oral History Program, Interview with Sara Mazo, 18 November 1993
https://www.moma.org/momaorg/shared/pdfs/docs/learn/archives/transcript_mazo.pdf
サラ・メイゾ・クニヨシ 1989年「チャーミングな素顔 池田満寿夫対談—夫 ヤスオ・クニヨシを語る」『ニューヨークの憂愁 国吉康雄 その生涯と芸術』日本テレビ放送網株式会社
サラ・マゾ・クニヨシ 1990年 「ごあいさつ」、『YASUO KUNIYOSHI ネオ・アメリカン・アーティストの軌跡』福武書店

L

La Toilette化粧

1927年 | 油彩 | 91.5cm×76.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.06.15 執筆者:江原久美子

化粧

女性が椅子に座り、片手をあげて耳元の髪に当てている。もう片方の手は下半身を中途半端に覆う布をたくし上げている。微笑んだ顔の視線は斜め上を向いている。赤いスリップを着ているが、片方の肩ひもは肩からずり落ちている。胸元から上は露出されているのに、足には黒いタイツを履き、さらには、これも片方だけだが、女性らしい華奢な靴をつっかけている。豊満でセクシーさに満ちた、それでいて愛嬌のある、優しい感じの人だ。私たちは、この女性を隅々まで見て、その魅力を味わう。
彼女は何をしているのだろうか?「何かをしている」というには不自然で、どうみても「画家のためにポーズをとっている」という感じだ。この女性も「絵描きがこうやれっていうからやってるのよね」とでも言い出しそうな表情である。
背後には植物の柄のあるカーテンがかかっていて、小さなテーブルにはブラシと、花が生けられた花瓶が置いてある。暖かな色合いともあいまって、彼女自身の雰囲気と同じような女性らしい空間である。
この絵のように、空想ではなく目の前にあるものを描くということは、国吉にとっては画期的なことだった。これ以前国吉は、心の中でふくらませ、組み合わせたイメージを描くことが多かった。しかし、1925年代に訪れたパリで多くの画家たちがモデルを写生しているところを見て、また友人であるパスキン(注1)に勧められ、モデルを前にして描くようになった。この作品は、そのような変化の時期に描かれたものである。
この作品は、福武コレクションがはじまったきっかけでもある。福武書店の創業社長 福武哲彦が最初に見た国吉作品であり、この作品に惹かれたことから国吉作品の収集が始められたと言われている。
「福武書店30年史」(1985年)では、福武哲彦氏は国吉作品の「感傷的な味わいのある叙情」や「哀愁をただよわせた画風」に魅了された、とされているが、この絵を見ていると、福武氏は、まずはこの作品に描かれた彼女の魅力、まさにその力の強さに引き寄せられたのではないだろうか・・と思わせられる。

注1:
ジュール・パスキン(1885-1930)
ブルガリア出身の画家。1920年代のパリで活躍した。このころパリではピカソやシャガール、フジタをはじめ、各地から多くの芸術家が集い、ボヘミアン的な生活の中でそれぞれの芸術を模索していた。パスキンは繊細で震えるような輪郭線と、淡く、真珠のような輝きを放つ柔らかな色合いで女性や子どもを描き、人気を博した。パスキンは1910年代にニューヨークでも活動しており、国吉康雄と親交があった。

F

Fish Kite鯉のぼり

1950年 | 油彩 | 76.5cm×125.7cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.04.28 執筆者:江原久美子

鯉のぼり

横長の画面に、赤い鯉のぼりが大きく描かれている。その口からは何かどろりとしたものがはみ出している。鯉のぼりは空を泳ぐのではなく、胴体の下の人物に抱えられているようだ。しかし鯉のぼりの目には力があり、口のあたりは立体的で、まるで生きているように見える。
鯉のぼりを下から抱えている人物、また周囲に描かれている人たちは、曲芸をしたり、道化師のような扮装をしている。ここはサーカス小屋なのだろうか。
この絵を子どもたちと一緒に見ると、彼らは、描かれているものを手掛かりに、自分がもっている知識や感覚を総動員して、想像を働かせる。——文字の書いてある看板と同じ高さだから、ここはかなり高い場所だと思う。だからこの斜めの棒は綱渡りの綱なのではないか。いや、この棒は鯉のぼりを突き刺している、だから鯉のぼりは苦しんで内臓を吐き出しているんだ。この下の方の人は鯉のぼりを泳がせようと、しっぽをヒラヒラと動かそうとしているのではないか。この人たちはサーカスをしているから、この絵を見ている僕たちもサーカスの小屋の中にいるんだよね。等々。
国吉康雄の絵がいつもそうであるように、この絵には解答は示されていない。
しかし国吉康雄の絵にしては珍しく、この絵には明確な意味を表す記号が描かれている。右上の「JULY4」—7月4日、つまりアメリカ独立記念日である。
アメリカ独立宣言には、アメリカ合衆国の根幹をなす考え方、つまり「すべての人は平等であり、生命、自由、幸福を追求する権利がある」という言葉が記されている。この考え方に賛同する人々によって、この国は成立している。
少年のころ単身で渡米した国吉康雄は、そのような社会で学び、成長し、画家となった。そして日米の戦争の間はアメリカを支持し、日本の軍国主義は世界の自由と民主主義を侵すものだと厳しく批判した。
戦後、国吉康雄は、全米美術家組合の初代会長、ホイットニー美術館での大回顧展、ベネチア・ビエンナーレでのアメリカ代表など、アメリカの画家として最高の栄誉を得た。それは長い間、アメリカにおける独自の絵画を追求し、それを創り上げたことに対する評価だった。
栄光に包まれた国吉康雄が、1950年という時期にあえて「日本」について描いたのがこの絵である。
彼の作品にはいつも、光と影、陽気さと陰鬱さ、美しさと醜さといった相反する要素が表裏一体となって織り込まれている。この絵にも、幾つものエピソードや意味が含まれているが、この絵が描かれてから67年を経た今もなお、私たちがとくに強く感じる点は、次のようなことではないだろうか。
1950年当時、繁栄を謳歌していたアメリカでは、日本に対して、そして世界の人々に対してどのような考えを持っていたのだろうか。日本は自らの占領下にある友好国であり、ソ連をはじめとする共産圏は相容れない敵国である・・・そのような、世界を分け隔てる考えではなく、異なる見方を国吉はここで提示しているように思う。
この絵では、鯉のぼりは苦しそうにも見えるが、しかし一方で力強く、生命力を感じさせる。日本の鯉のぼりは長い間、子どもたちの成長を願って人々が大切にしてきた風習である。アメリカ人がかつて憎み、打ち負かした日本にも豊かな文化と人々の生活と心があり、それは敗戦後の今も、たくましく生き延びようとしている。
アメリカ独立宣言が告げるように、すべての人は平等なのだ。アメリカだけでなく、日本も、またその他の人々も含め、世界中の文化と人々の心が尊重されるべきなのだ。私たちは、この絵のように、ひとつのサーカス小屋の中にいて、時間と場所を共有しているのだ、と。

J

Japanese Toy Tiger and Odd Objects日本の張り子の虎とがらくた

1932年 | 油彩 | 85.3cm×125.7cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.04.14 執筆者:江原久美子

日本の張り子の虎とがらくた

テーブルにいろいろなものが乗っている。が、中でも気になるのは、こちらを見ている張り子の虎だ。
虎はまん丸い目を見開き、歯を出して笑っているようだ。黒い鼻、眉や口ひげ、虎としては奇妙な大きな赤い耳、斜め上に向かって長くのびた尻尾。なんだかマンガのようだ。一方で、突っ張った4本の足はいかにも「置き物」といった感じで、生気のある表情とはちぐはぐな印象だ。
その周りには、大きな水差し、赤いバンダナ、ひものついた双眼鏡、白い茶碗のような器、何本かの細長い円筒状のもの、カーテンを止めておくタッセルのようなものが横長の四角いテーブルの上に置かれている。テーブルの背景は黒っぽい色で塗られていて、ここがどういう場所なのかわからない。まるで写真撮影用の背景布の前に置かれたオブジェのようだ。そう、このテーブルの上のものは、「見られるため」「描かれるため」に置かれているのだ。
これは画家が「静物画らしい静物画を描こう」と意図して、対象物を選び、アトリエのテーブルに注意深く配置して描いた絵なのだろう。水差しやバンダナなどは、「いかにも静物画らしい感じ」を醸し出すために選ばれているように思われる。それらを国吉は卓越した技術で描いた。構図、色の選び方、重ね方、筆の運び方が非常に的確で、そして仕上がった絵は国吉独特の、ほかの誰にも真似できない1枚である。「上手い。そして上手いだけでなく独創的だ。国吉はプロフェッショナルな画家なのだ」と感じさせるために、この絵は国吉が示した見本なのだろう。
しかしそれにしても、この張り子の虎は何だろう。
「この虎の置き物は何だ?何を意味しているんだ?」と、1930年代のニューヨークでこの絵を見たアメリカ人たちも思ったことだろう。「たぶんこれは日本に由来するものだろう。クニヨシは、自分が“日本の文化を背景に持っている”ことを主張しているのだろうか? 虎はなんだかずいぶん笑っているようだが・・・」と、煙に巻かれたような気になったのではないか、と思う。
そして現在でも、この絵に対しては「国吉は郷愁を感じ(注1)、日本の張り子の虎を描いたのだ」「自分は二つの祖国のはざまにあるというアイデンティティを表している」「アメリカで画家として生き抜こうという決意を表明したのではないか」(注2)、そして「これらのものの組み合わせは意味ありげではあるが、結局のところ何を表しているかわからない」など意見百出で、皆、依然として煙に巻かれたままなのである。
この絵を見て誰もが最初に感じる「何だか変だな」という違和感、深刻なようでちょっとふざけているような感じ。そういった心の動きを、国吉は見る人と共有したかったのではないだろうか。国吉康雄は絵を描く能力だけではなく、アメリカという国で、画家としての自分をどのように見せ、売り込むかというプロデュース能力に長けていた。その彼が、見る人の思考や心の動きをうまく誘導しつつ、それでも、絵を見る人と自分との間でともに持ちたかったのは、そのような心の動き、明るいユーモアといったものではないだろうか。張り子の虎の口から、国吉康雄の笑い声が聞こえるようだ。

注1:
国吉康雄はこの絵を描いた前年、危篤の父親を見舞うために数十年ぶりに岡山に帰郷した。そして岡山で張り子の虎を購入し、アメリカに持ち帰った。

注2:
国吉康雄は、帰郷のあと「自分は日本よりむしろアメリカのほうに属している」と思ったことを後年述懐している。
「私は日本への帰郷を楽しんだが、これほど長く離れていた後では、順応するのは難しいと思った。奇妙で不自然だと感じた。私はそこには属していなかった。(略)私は1931年の2月に帰りの船に乗った。私自身が選んだ家が自分の家なのだと強く思いながら。私は再び、子供の頃の夢だった岸に着いた。今回は友人たちが挨拶してくれ、奇妙さを感じない国(アメリカ)に帰って来られて嬉しいと思った。」(”East to West,” Federation of Art Magazine, 1940年2月より、江原訳)

C

Chicken Yard鶏小屋

1921年 | 油彩 | 50.8cm×40.6cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.02.28 執筆者:才士真司

鶏小屋

さぁ、この作品。一見すると、「なんなんだ」と言いたくなる。だがこの作品、確信的なものだとしたならどうだろう。
よく言えば、素朴な味わいのある絵だと言えなくもないこの作品をじっくり見てみる。この鶏。それにタイトルにある鶏小屋の描き方というのは、フォークアートと呼ばれる開拓時代のアメリカの絵画作品の様式によく似る。模倣と言ってもいい。国吉は、自身がアメリカに渡る100年ほど前に描かれた様式を取り入れた。一方でこの不思議な構図は欧米的なものではない。けれど、どこかで見た覚えはないだろうか。想像して見てほしい。この絵が油彩画ではなく、墨による線描だとしたなら。この鶏たちをはじめ、描かれているアイテムを日本画的なものに置き換えみて、例えば若冲の鶏がそこにいたなら。もちろんかなり想像力を逞しくする必要はあるが、鶏や風景の配置が日本のそれだということに気づかないだろうか。これは、遠くのものを上の方に。近くのものを画面の下に配置する鳥瞰法で描いているのだ。鶏は陽光のなか、餌をついばんでいるが、小屋のなかは暗く、止まり木の鶏たちは眠っている。つまり昼と夜、ふたつの時間が絵のなかに存在していて、これも時間経過をひとつの画面のなかに存在させてしまう日本画的な表現だ。
ではなぜ、国吉はこんな絵を描いたのか。この絵は移民である国吉が、その才能を支援するアメリカのシステムや人々によって画家としての道を歩み始めた頃の作品だ。この頃の国吉を評した言葉に、「東と西を心の中で溶かした」というのがあるが、妙に納得をしやしないだろうか。この頃の欧米では、ジャポニズムブームがまだ続いており、日本的な技法を取り入れた絵画作品が流行していた。加えて、「クニヨシ」という名前だ。のちにラジオは、国吉を「日本のスーパースターと同じ名前を持つ」と紹介する。これは歌川国芳のことで、つまりこの作品は、デビューを目指す若い日系の画家の戦略の賜物で、母国の特性とチャンスを与えたアメリカの原点ともいうべき美術表現をそれぞれ組み入れた作品なのだ。そして狙い通り、この作品を始め、国吉最初の個展に並んだ一風変わった作品たちは激賞され、国吉はニューヨーク画壇に鮮烈なデビューを果たすことになる。

P

Picnicピクニック

1919年 | 油彩 | 76.5cm×91.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2016.11.30 執筆者:才士真司

ピクニック

この絵が描かれた1919年。国吉は『アート・ステューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク』(以降、リーグ)に在籍していた。
国吉がリーグに入ったのは、1916年。いくつかの美術学校を渡り歩いた国吉は、4年間、ここで絵を学ぶ。国吉が指導を受けたケネス・ヘイズ・ミラー(1876-1952)は写実主義の画家で、ヨーロッパの巨匠たちが遺した名画に詳しく、ドローイングの大切さやルネッサンス絵画の解釈など、先人の技術を学ぶことを生徒たちに教えた。メトロポリタン美術館に生徒たちを連れ出し、実際に、歴史的名画に触れる機会の重要性を説き、自身はそういった伝統的な技法と現代のアーティストが取り組むべき「テーマ」の融合を目指し、ニューヨーク市民の日常を描いていた。国吉は、「彼(ミラー)は、私の芸術に対する認識を変え、それまで何の意識も持たなかった私は、ひとつの方針と主題を持つようになったのである」と語っていて、1年遅れてリーグに入学した清水登之は、「国吉はいつもミラーのクラスに居残って勉強していた」と、国吉が帰国した際の新聞記事に書いている。一方で同じくリーグに通っていた北川民治は、のちに国吉の妻となるキャサリン・シュミットらと、セザンヌやルノアールについて議論したと証言していて、印象派などの美術動向に関しても画学生たちが関心を持っていたことがうかがえる。
こうしたリーグの環境や仲間との議論、ミラーの教えや創作に対する姿勢といった、当時の国吉の興味や気分を如実に現しているのが、この作品、『ピクニック』ではないだろうか。
陽光のなか、若い男女がくつろいでいる。国吉たちはよくピクニックに行ったらしい。国吉にとっては日常を描いたものなのかもしれないが、国吉らが研究していた技法の成果が画面からは溢れている。そしてどこか師のミラーの作品のような神秘的で、宗教画のような荘厳な印象も受ける。ただ、これほど暖かく、優しさに溢れた絵を、この先の国吉作品で見ることはない。そういった意味でも、岡山の国吉康雄コレクションで重要な作品だといえる。

I

Izushicho出石町(いずしちょう)

クレジット:2013年国吉康雄フラッグ第1弾
更新日:2016.10.17 執筆者/才士真司・取材/伊藤駿

出石町

岡山県岡山市北区出石町は国吉康雄が生まれ、16歳までを過ごした町だ。国吉の父はここで人力車夫の組頭をしていたと言われているが、それはこの町が日本三名園の一つに数えられる後楽園を中心とした観光名所を橋一本で繋いだ門前町であり、交通の要所でもあったからだろう。今でも週末になると大勢の人が、後楽園や国吉と同時代に活躍したアーティスト・竹久夢二の画業を伝える竹久夢二郷土美術館を目指し橋を渡る。
出石とは「出る石」と書くが、その由来は江戸時代に起源があるらしい。当時、商業流通というものは河川を使うのが主流で、旭川の川上からも相当数の川舟が常時下ってきた。そういう荷船の発着を容易にする石の足場が、出石の辺りに多く設置され、そこから出石と呼ばれるようになったと教えてくれたのは、もう4年目となった月に一度の「出石国吉康雄勉強会」の代表で郷土史を研究する御仁だ。そう、この町は岡山の、いや、日本の国吉康雄研究の発信地でもあるのだ。1945年の岡山空襲の被害を逃れた町である出石には、明治や大正、昭和といった様々な時代の建物が町内各所に残り、「そういえば親父が『ヤス(国吉康雄の愛称)が、ヤスが』と話していたのを覚えている」というような話を町の方から聞いたりすると、ここにいると少し、国吉のいた頃を感じられたりする。そんな出石は、「岡山の文化芸術文のへそ」でもある。前述のレトロ建築は、古着屋や昭和モダンな小物店やカフェに代わり、若者文化の発信地となっている一方で、「岡山カルチャーゾーン」と名付けられた文化施設が集まる地区の中心地点が出石なのだ。出石の周辺には前述した後楽園や竹久夢二郷土美術館のほか、黒い外壁から“烏城”と親しまれる岡山城。刀剣の至宝を収める県立博物館。雪舟など日本画の名品が揃う県立美術館があり、当代一級の古代オリエントの遺物を鑑賞できる岡山オリエント美術館や国宝を多数有する林原美術館などもある。
国吉から始まる出石町とその周辺の探索というのも、オススメだったりするわけだ。

G

Girl No,2『ここは私の遊び場』

1947年 | 油彩,麻布 | 68.6cm×111.8cm | 福武コレクション蔵
更新日:2016.09.15 執筆者:才士真司

Girl No,2

『少女よ、お前の命のために走れ』という1945年の作品で国吉は、少女が駆けていく先に、薄日射す空の下に続く一本の道を描いていた。その道に先があるとしたら?
翌年に描かれた『ここは私の遊び場』という作品にその道があって、この作品にも少女が描かれた。だが、この作品の少女は「命のために」走ってなどいない。タイトルの通り遊んでいるのだ。しかも崩れた建物、廃墟でだ。前年の作品では判らなかった少女の表情も分かるし、身につけているワンピースも鮮やかに見える。作品の置かれた環境の差による劣化のせいなのか、前年の作品にはなかった雲間に描かれた青空のせいなのか。この絵には他にも気になる点がある。黒い目玉のようであり、国吉の生まれた国の旗のようにも見える布が、国吉作品に度々登場する十字架のようにも見える廃材に引っ掛けられている。布には小さな穴がいくつも開いていて、それが元からなのか、例えば銃弾の痕なのか、そういうことはまるでワカラナイ。少女が遊ぶ廃墟には幾つかの消え掛かった文字や数字、手差し記号もある。廃墟が元はなんだったのか。それも分からない。そして、この作品には似た作品がある。国吉の友人であるベン・シャーンが、ナチスの支配から脱した荒れ果てたパリで遊ぶ子どもたちを描いたシャーンの『解放』という作品だ。1944年のこの作品の少女たちには、タイトルや描かれた時期にもかかわらず、笑顔はない。国吉は第二次世界大戦が終わった翌年にこの絵を描いた。国吉にとっては、このシャーンの作品も、自身の作品にメッセージを宿す「暗号」の役割を果たしているようにも思える。
そのシャーンは、「ヤス(国吉のこと)のことなら何から何まで私は熟知している」と言い、「(国吉の作品は、)何か捉えがたい、何か考えさせる間は、何かに憑かれてしまうような、何か未知の世界に引きずり込まれていくような気がしてならないと言わしめるのだ」と、評した。
この作品は今、香川県直島のベネッセハウスミュージアムに展示されている。

G

Girl No,1『少女よ、お前の命のために走れ』

1946年 | カゼイン、石膏パネル | 35.5cm×50.8cm | 福武コレクション蔵
更新日:2016.07.15 執筆者:才士真司

Girl No,1

大きな斧を振りかざすカマキリとバッタが対峙する彼方を、小さな女の子が裸足で駆けていく。この絵のタイトルは『少女よ、お前の命のために走れ』という。一見すると、この世のものとは思えない景色だ。少女が小さいのか昆虫たちが巨大なのか判然としない。少女の駆ける先には曇天の空の下に続く、一本の道がある。この絵の意味するところは、ワカラナイ。それでもこの厚い雲を透かし、日差しの予感を感じさせる、黄金色の大地が描かれた光景を見る機会を得た人たちは幸せだ。晩年に続く偉大な画業の幕開けともなるカゼインで描かれたこの絵の色彩は、とても美しい。
国吉作品の絵解きは、盛んに行われてきた。けれど、画家自身は、それをしていない。
アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク以来の友人で、画家のアレキサンダー・ブルック(1898–1980)は、国吉に宛てた献辞に、「批評の多様性」によって、個々の作家のそれぞれの作品を説明しようという試みがなされてきたが、そのことごとくが、「惨めな失敗」に終わってきたと前置きしてから、「真実に最も即した批評家とは、芸術というものについては何も知らないが、私が何を好きかは知っていると言える人々のこと」と続け、自分もそういう者だとした上で、こう結んだ。
私が好きなもの。賞賛し、尊敬し、栄誉あるものとして愛してやまないのは、国吉康雄が残した生涯に渉る作品たちだ。
と、言われても気になる。せめてひとつなりとも、想像のヒントとなるようなことを考えてみよう。この作品が発表されたのは、1946年という年で、第二次世界大戦が終わった翌年のこと。だがここに、アメリカの祝勝ムードというのは感じられない。事実、国吉は次の戦いに身を投じている。それは、国吉の残りの人生をかけた戦いとなる。全米のアーティストたちの社会的地位の向上と、人種を問わない平等な権利の獲得のための闘争が、国吉という偉大なカリスマの登壇を望んでいたのだ。

C

Crownクラウン

1949年 | グワッシュ・紙 | 152cm×205cm | 福武コレクション蔵
更新日:2016.06.15 執筆者:才士真司

Crown

戦後、国吉は日系人の強制収容や、原爆の被害者を支援するための活動を行う。日本に行くことを希望し、陸軍に志願もしたがポストがないと断られた。国吉はウッドストックでチャリティーを開き、大勢の前で即興で絵を描くと、その収益金を強制収容された人々に寄付する。
一方、1946年から1947年にかけて、アメリカ国務省が作品を買い上げ、その主催で開催された巡回展、『前進するアメリカ美術展』が、マスコミによるネガティブ・キャンペーンなどにより中止に追い込まれた。イリノイ州選出のある下院議員が議会でした発言で、当時の状況がよくわかる。
納税者の負担で国務省が巡回させている(国吉康雄作の)『休んでいるサーカスの女』やほかのクズみたいな作品は、外国で害を撒き散らしている。アメリカ人をぞっとさせたあの絵、『休んでいるサーカスの女』は、素晴らしいアメリカ美術の代表として国務省が外国に送り出したとんでもない絵画の典型だ。
こういった発言の背景には、国吉のこれまでの様々な活動や国吉の身分であって、この展覧会の原資がアメリカ国民の血税であることが強調され、敵国人である国吉が国家の代表でいいのかと暗に、時に直接的に叫ばれた。この、『前進するアメリカ美術展』で湧き上がったバッシング騒動が拡大していた、1949年のチャリティーで描かれたのが、『クラウン』だ。
肉を包むのに肉屋が使っていたため、ブッチャーズペーパーと呼ばれる厚手の茶紙に、グワッシュで描かれた152×205cmの大作で、道化(クラウン)のマスクが画面いっぱいに描かれている。
道化やマスクという題材は、それまで多かった女性像から入れ替わるように、この頃から登場するようになる。道化やサーカスを題材にした作品が、この時期制作される油彩やカゼイン画の大半を占め、色彩も一見、明るさを増してはいくが、代わりに登場人物たちの表情の持つ意味は、サーカスという題材ゆえのメイクや仮面で、以前の女性たちの表情にも増して曖昧になり、見る者の感情や経験によって、左右された。

M

Mr.Aceミスターエース

1952年 | 油彩 | 116.9cm×66.1cm | 福武コレクション蔵
更新日:2016.04.28 執筆者:才士真司

Mr.Ace

国吉康雄最晩年の油彩画。故に最高傑作ともいわれる。国吉にとって仮面や仮面をつけた人物というモチーフはかなり重要なものなのだけれど、この作品で描かれた人物(道化師)は、その仮面を脱いでしまっている。国吉の作品で仮面を脱ぐという行為はこの作品以外には確認されていないし、他の画家との比較においても珍しいモチーフだといえる。このことが意味することは何なのでしょう。作品を見てみましょう。描かれているのは確かにサーカスの道化師で、テントの中なのだろうか。どうにも判然としない不思議な空間に佇んでいる。画面は透明感のある鮮やかな色彩に彩られ、幾層にも重ねられたこれらの色は、国吉自身の言葉を借りるなら、まさに「色に命を」与える作業の成果で、この不思議な色には、国吉が人生をかけて習得したあらゆる技法が集約されている。一方で素顔を隠すはずであり、商売道具でもある仮面を脱ぎ、素顔を晒しながらも、まるで仁王像のようなポーズを決める道化師。その口はまさに、すべての終わりを意味する「吽」の一文字のように結ばれている。そしてこの表情。皆さんにはどのように映りますか?笑みを浮かべている?哀しみに覆われている?この絵に対する印象は人によって様々。この絵の面白さは、エースの前に立つ人の気持ちを合わせ鏡のように写してしまうところでもある。それは、達磨大師の肖像のようにどこから見ても目が合う、その視線によるところも大きいと思う。
アメリカの国吉康雄研究家のトム・ウルフ氏は、エースという言葉を、「切り札」や、絶対的なヒーローという意味だけではなく、二面性のある、裏の顔を持つ人物をも指す言葉だとも紹介している。また晩年に国吉からミスターエースの意味を聞いたという国吉の教え子であるスティーブン・ドーフマン氏は「映画からインスピレーションを得た作品だ」と語る。その映画の主人公は、アメリカらしい男性像を演じることに疲れたという設定で、その映画のタイトルが「ミスターエース」。

執筆者について

才士 真司

才士 真司 
SAITO Shinji

岡山大学国吉康雄寄付講座准教授。2013年、直島で開催された「国吉康雄展~ベネッセアートサイト直島の原点」での映像制作、空間演出以降、アートイベント「国吉祭」を岡山で仕掛けるなど、国吉康雄関係の研究・顕彰プロジェクトを企画、プロデュースしている。

伊藤 駿

伊藤 駿 
ITO Shun

一般社団法人クニヨシパートナーズ代表理事 / 岡山大学国吉康雄寄付講座助教
東京のモデル事務所に所属し、「MEN’S NON-NO」や「VOGUE」などのファッション誌や広告、ブランドCMなどを中心に活動していたが、2015年、アメリカのスミソニアン・アメリカン・アート・ミュージアムで行われた国吉康雄回顧展を訪れたことをきっかけに、同展に日本側のスタッフとして参加していたクリエイター、岡山大学准教授の才士真司氏のアシスタントとして、岡山大学と福武財団、福武教育文化財団、ベネッセホールディングスの協働研究・顕彰企画「国吉康雄プロジェクト」に参加。2016年成羽市の広兼邸で開催した「国吉祭2016in吹屋」を企画。東京でのショービジネス界での経験を生かし、同年開催した「国吉祭2016」以降、同プロジェクトの中心スタッフとして活動。2018年4月、助教として着任。現在に至る。

江原 久美子

江原 久美子 
EHARA Kumiko

1968年岡山生まれ。「ベネッセアートサイト直島」の企画担当、岡山大学国吉康雄寄付講座特任准教授を経て、現在は、公益財団法人 岡山文化芸術創造にて、岡山芸術創造劇場(仮称)の開館準備に携わっている。