福武教育文化振興財団

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YASUO KUNIYOSHI A to Z
COLUMN
W

Watermelon西瓜

1938年 | 油彩、キャンバス | 101.6×142.2cm | 福武コレクション蔵
更新日:2019.7.25 執筆者:江原久美子

西瓜

単純な絵
細長いスイカが真っ二つに切られ、断面を上にして置かれている。このスイカはよほど大きいのだろうか、四角いテーブルの上に収まらず、片方はテーブルの向こう側に落ちそうだ。テーブルにはなぜか右半分だけ白い布(あるいは紙?)が敷かれているテーブルはたぶん木製で、背景はテーブルと同じような茶色で塗られている。
それだけといえばそれだけの絵だ。この絵は結構サイズが大きく、国吉康雄が描いた作品としては最も大きなものの一つなのだが、そこに堂々と「半分に切られたスイカ」しか描かれていないとなると、見る者としてはなんだか肩透かしをくらったような気持ちになる。だがもう少しじっくりスイカを見てみると、二つの断面の色が少し違っていることに気がつく。右側のほうが左側に比べて少し赤色が濃く、切ってしばらくそのまま置かれているような、新鮮さが失われているような感じがする。フチの白い部分も右側のスイカの方は少し変色しているようだ。一つのスイカを切ってそのまま二つの断面を置いていると思っていたが、そうではないのだろうか?
なんとなく腑に落ちないが、全体としては、赤と緑、白、そして茶色という4つの色が単純な形で画面の中に構成されていて、見ていて心地がよい。2015年、スミソニアンアメリカ美術館での国吉康雄回顧展にこの作品が出展された際、図録には「ありのままを描く率直さが、『西瓜』に力強さを与えている。」1 と書かれていた。まずは、単純さ、率直さ、力強さがこの絵の特長といえるだろう。

腐っていくスイカ
国吉康雄の絵にはいつも「何を表しているのだろう?」と深読みしたくなるような謎めいたところがある。この絵にも、こんな大きな画面にスイカだけ? なんだか奇妙だ、色や構図だけを楽しむ絵でもなさそうだ、という違和感がある。
絵だけ見ていても難しいので、本人が書いた文章を読んでみよう。国吉康雄が静物画について書いた文章の一節である。
「西瓜を描いていた時に、途中で西瓜が傷み始め、描き終わる前に皮まで腐ってしまったことがあったのを私は思い出す。西瓜は虫だらけになってしまったが、面白いことに一ヶ月が過ぎ去り、絵はまだ完成していないのに、西瓜自体の原型が崩れ去った後でも、全てのものを制作を始めた時に組み立てた通りにしておくと、目の前に私は西瓜を感じ、視覚化することができた」2
国吉は1ヶ月以上かけて目の前で西瓜が腐っていく様子を見ていたという。切られた半分のうち左側のスイカは比較的新鮮なとき、右側はかなり傷んだ状態を描いたものだろう。この絵の中で、時間が流れているのだ。
そしてこの文章からわかることは、国吉が目の前のものをそのまま描いていたわけではなく、記憶の中にとどめた姿をもう一度組み立てて描いたということだ。
「目の前のものをそのまま描くのではなく、記憶の中にとどめた姿をもう一度組み立てて描く」。この方法を、国吉はこの時期数多く描いた女性像の制作でも用いた。モデルを前に多数のデッサンを描き、そのあと半年以上置いておいて女性たちのイメージが自分の頭の中で溶け合ってから、油彩画を描いた。それらの絵を、国吉は特定の女性ではない自分にとっての理想の女、「ユニバーサル・ウーマン」と呼んだ。
国吉はスイカを描くとき、女性を描くときと同じような姿勢で臨んでいたのだろうか。確かにこのスイカの生々しさは、女性の肉感的な感じを連想させる。生きていて、時間とともに変化し、朽ちていく肉体。「絵は完成していないのに西瓜自体の原型は崩れ去った」と国吉は書いている。動かないように見える静物も、時間の経過とともに変化していく。その姿を国吉はとらえた。
そういえばセザンヌという画家は静物画、風景画のほか肖像画も描き、肖像画のモデルを務める妻に「動くな!リンゴは動かない」と言ったという。セザンヌには、自然の中にある「物」の形を単純化し、自然の持つ本質を描き出そう、自然が永続的な存在であることを表現しようという意図があった。セザンヌは、自分が見ている「物」の形と色を単純化して描こうとしたが、国吉は単純な形と色を使いながらセザンヌとは異なり、永続的ではない「生命の姿」を描き出した。移りゆくもの、腐っていくもの、国吉はそちらのほうに本質があると考えていたのではないだろうか。
「移りゆく生命」「朽ちていく肉体」を描いた絵は、古今東西に存在する。西洋には、豪華な静物画の中にあえてドクロや腐っていく果物を置いて、人間の死すべき運命や虚栄のはかなさを思い起こさせる「ヴァニタス」(人生の虚しさの寓意)というジャンルがあった。とくに西洋美術の絵画を見慣れている人にとっては、国吉の単純なスイカの絵もまた、ヴァニタス画の強烈なメッセージを思い出させるものだろう。

スイカと黒人蔑視
もうひとつ、「スイカ」というテーマについて、アメリカでは見逃せない視点がある。
2019年5月、ボストン美術館を訪れていた中学生のグループが、入館時の注意事項として次のような言葉を聞かされた。
“No Food, No Drink, No Watermelon”(飲食とスイカ禁止)
通常は「No Food, No Drink, No Waterbottle」(飲食と水のボトル禁止)という決まり文句を聞く場面である。なぜスタッフはwaterbottleではなくwatermelonと言ったのだろうか。その中学生のグループには、わざわざスイカのことを言われる何かがあったのだろうか?
この言葉をかけられたのは黒人の中学生たちだった。そしてアメリカではスイカは黒人蔑視の典型的なシンボルである。スイカが黒人蔑視のイメージをもつというのは日本ではあまり想像できないが、アメリカでは、黒人はスイカに対して尋常でない食欲を示すという類型化された偏見がある。そのイメージは戯画化され、映画や印刷物に多用された。現在、そのイメージがおおっぴらにされることはないが、黒人差別のイメージとして根強く残っている。
ボストン美術館で、黒人中学生は自分たちは差別されたと感じ、引率の教師に伝えた。教師はこの出来事をフェイスブックに書き、問題が公にされた。美術館は第三者による調査を行い、事実を認めて謝罪した。アメリカのマスコミは、ボストン美術館および他の美術館で現在も黒人の来場者がどのような差別を実際に受けているか、たとえば黒人の来場者は白人の来場者に比べて作品に触らないように厳しく監視され注意される傾向にある、などと報道した。
アメリカで19世紀から続くスイカ=黒人というイメージ、それが21世紀になっても忘れ去られず残っている。美術館は多様な価値観を表現するはずの場所なのに、今もなお白人の崇高な美の殿堂として、飛び散るスイカの汁で汚されては困るのだという感覚がとっさに出てしまう。
国吉がこの絵を発表したのは1938年、その当時も、そして現在に至るまで、アメリカの人々はこの絵を見て黒人蔑視についての絵なのではないかと感じたはずである。
果物のなかでもとくにスイカだけを選んで描き、黒人蔑視について告発しているのではないかと思わせたのは、国吉が最初ではない。1890年、黒人の静物画家、チャールズ・イーサン・ポーターがスイカを描いてこの問題を提起した。現在はメトロポリタン美術館にあるこの絵には、乱暴に割られ、かぶりつかれたような果肉のスイカが描かれている。
国吉が1938年当時、ポーターのスイカの絵を見ていたかどうかはわからない。しかし白人にとっては、ポーターのような黒人や国吉のような黄色人種から、西洋美術=白人の文化の静物画の文脈を使って異議を申し立てられることには強烈なインパクトがあっただろう。
国吉はアメリカ画壇で実力を認められ活躍していたが、ニューヨークで生活するうえでは、日本人・有色人種に対する日常的な差別を受けることは茶飯事だっただろう。そして1937年には、画家としても「アメリカ市民ではない」という理由で、アメリカ政府によるアーティストへの公共事業を受ける資格を剥奪される。市民としてもアーティストとしても、人種を理由に差別されるという経験を、国吉は骨身にしみて味わっていた。
ポーターのスイカが、割られて食われていたのに比べて、国吉のスイカは「切られて」「さらされて」「見られて」いる。誰に見られているのか、というとそれは絵のこちら側にいるあなただ。
この絵を見ているあなたの人種は?それは誰かに差別される対象か、それともそうではないのか? あなたは何らかの市民権を持っているか?それは誰によって与えられているのか、あるいは奪われてしまったのか?あなたはそれに対してどういう立場をとっているか? 無自覚でいられるか、それとも問題だと思っているか?
この絵を、国吉はたびたび主要な展覧会に出展し、人の目に触れる機会を設けた。国吉は現実の自分の立場と合わせて「考えさせる」「問いかける」仕掛けをつくったといえる。この奇妙な西瓜の画面が、お前は何者だ?どういう立場をとるのだ?と問いかけてくる。

1 Wolf, The Artistic Journey of Yasuo Kuniyoshi Smithsonian American Art Museum
和訳は松本悠里による。
2 1944年8月24日の国吉康雄によるメモ。原文は英語。Yasuo Kuniyoshi Papers, Preliminary Notes for Autobiography, 1944 , Archives of American Art, Smithsonian Institute.
和訳は「国吉康雄美術館報8号」(1995年)より引用

A

Attacked Worm攻撃された芋虫

1951年 | カゼイン、板
更新日:2019.5.27

Same age

2018年、福武コレクションに新たに加わった作品。
晩年の国吉は、色鮮やかなカゼイン画を多く描いたが、この作品もそのひとつである。
しかし国吉はここで、色彩とは裏腹な奇妙なモチーフ、芋虫を描いた。芋虫は一見グロテスクだが、丸々として色も鮮やかで、生命感にあふれている。その反面、表面はやわらかくて非常に傷つきやすそうだ。芋虫は、うまくいけばこのままサナギに、そして蝶々に変身していくだろう。しかしこの芋虫がぶらさがっている枝は細くて短く、とても芋虫を支えられそうにない。
芋虫はこのまま死んでしまうのだろうか。タイトルの「攻撃された芋虫」は、そんな悲劇的な運命を示しているのだろうか。
生まれたばかりの弱い存在、これから美しく変身するはずの命が、外からの力によって絶えようとしている。この絵はそんな悲劇的な一場面であり、奇妙なタイトルと題材はこれがなんらかの大きな物語の一部だからだ、そんなふうに想像がひろがる。
国吉康雄は、この作品の前にも何度か虫を描いている。「少女よお前の命のために走れ」(Girl Run for Your Life )(1946)では大きなバッタとカマキリを、また他には、蝿をインクで画面いっぱいに描いた作品もある。
この「攻撃された芋虫」には、シリーズ作品ではないかと思われる「私の運命はあなたの手の中」(My Fate is in Your Hand)(1950)という作品がある。ここでは芋虫は、タイトルのとおり大きな手のひらに乗っており、バッタの成虫も見られる。人物を含めた抽象的な画面構成や謎めいたタイトルは何を意味するのか。「私」とは、芋虫であると同時に国吉自身なのだろうか、「あなた」とは誰なのだろうか。運命を左右する大きな、神のような存在、ということなのだろうか。
「少女よお前の命のために走れ」というタイトルにも「命」という言葉が使われている。国吉にとって虫という題材は、命について考え、表そうとするときのシンボルだったのかもしれない。

「私の運命はあなたの手の中」ネルソン・アトキンス美術館(アメリカ、ミズーリ州)
https://art.nelson-atkins.org/objects/21026/my-fate-is-in-your-hand

S

Same age同い年

1931年(昭和6年)、帰国時の国吉康雄 | 福武コレクション蔵
更新日:2019.3.25 執筆者:江原久美子

Same age

1889年(明治22年)、岡山で生まれた国吉康雄は、今年、生誕130周年を迎える。同じ年に岡山で生まれた人物としては、文筆家の内田百閒(1889-1971)、洋画家の坂田一男(1889-1956)、日本画家の小野竹喬(1889-1979)らがいる。彼らはそれぞれ別々の境遇で生まれ育ち、それぞれの意志で自分の道を選んだ。
明治時代、急速に近代化が進んだ日本では、毎年のように何らかの象徴的な出来事が起こったが、中でも明治22年という年は、大日本帝国憲法が公布され、全国で市制が敷かれて岡山も「岡山市」となり、フランスではエッフェル塔が完成し、パリ万国博覧会が開催された年である。国吉康雄や同年代の少年たちが生まれたのは、日本も世界も近代化、西洋化、工業化を突き進んでいた、そのひとつの節目といえる年だった。
少年時代の国吉康雄、内田百閒、坂田一男は岡山市の中心部に住んでおり、同じ時期に岡山高等小学校(のちの内山下高等小学校)で学んでいた。
高等小学校時代に彼らがどの程度お互いを知っていたかはわからないが、のちに1931年(昭和6年)、国吉康雄が帰国して東京や大阪で展覧会を開き、文化人たちに歓迎されたという新聞記事を、東京にいた内田百間が読んでいたら、国吉が小学校の同級生だったことを思い出したかもしれない。坂田一男はその10年ほど前からパリで画家として活動していたので、国吉康雄が1920年代に2度パリを訪れた際に、ニューヨークとパリでそれぞれ活躍する画家として会う機会があったかもしれない。
小野竹喬は笠岡に生まれ、14歳のとき京都に行き、日本画家の竹内栖鳳に弟子入りする。竹喬にとってほかの3人との直接の接点はなかっただろうが、彼もまた近代の芸術の世界で、新しい表現を求めて模索を続けた。
彼らが生きたは戦争の時代でもあった。5歳のときに日清戦争(1894)、15歳のときに日露戦争(1904)が起こる。その後も断続的に戦争は続き、1945年に第二次世界大戦が終わったとき、彼らは56歳になっていた。それぞれの事情により彼ら自身が戦地に行くことはなかったが、彼らの人生の大半は戦争の中にあった。彼らの(そして世界中の人々の)人生を根本から変えてしまっただろう戦争が終わったあとも彼らは創作活動を続け、それぞれの代表作を生み出していく。
同い年の彼らに、何らかの共通点・時代の精神といったものはあったのだろうか?
彼らはみなこうだった、とひとくくりにできる言葉は、実は見当たらない。彼らはそれぞれ独自の道を自分で探し、他の誰にも似ていない人生を歩んだ。逆説的だが「彼らはいずれも、彼ら自身の独自の道を歩んだ」という共通性はあるのだ。
彼らは、困難な時代に自分の独自性を徹底的に追求した。だからこそ彼らの芸術は現代に残り、現代の人々、とくに岡山の人々にとって重要な存在になっている。

R

Radio City Music Hallラジオシティ・ミュージックホールの壁画

1932年 | 壁画
更新日:2019.1.21 執筆者:江原久美子・才士真司

Radio City Music Hall

国吉康雄による壁画(ラジオシティ・ミュージックホール)撮影:才士真司

ニューヨーク・マンハッタンの中心部に、ロックフェラー・センターという、超高層ビルを含む複合施設がある。1929年の大恐慌のあと、大富豪ジョン・D・ロックフェラーが巨費を投じて建設したこの施設は多くの雇用を生み、また施設内を装飾するための壁画やレリーフ、彫刻作品などが大量に発注されたことで、当時のアーティストたちを経済的に援助する役割も担った。
ロックフェラー・センターには、ラジオシティ・ミュージックホールという大きな音楽ホールがある。1932年、国吉康雄はこの女性用化粧室に壁画を描くという仕事を請け負った。現在も残るその壁画は、四方の壁と、それに続く丸い天井全体でひとつの作品となっている。淡いピンクと空色を基調とした背景に大きな葉や花が描かれており、室内を訪れる人は自分が小さな虫か動物になって、空の下、植物の間にいるような視点を楽しむことができる。その優美な筆致からは、女性たちの、音楽や演劇の幕間を過ごす気分を盛り上げようという国吉の演出が伺える。
国吉は、発注者の意向や、この室内で過ごす女性たちの気持ちを想像したのだろう。彼はいつもキャンバスに描いていた画風とは異なったテーマ、筆致を選び、与えられた目的に合わせてこの壁画を描いた。国吉による壁画作品はほかにはなく、これが唯一のものである。
建物の壁や天井に直接絵を描く壁画は、古い時代から存在する。しかし20世紀になってからは、壁画は政治的なメッセージを強く伝えるための手段としても描かれるようになった。1910年代から20年代のメキシコでは、農地の解放や富の格差に対する庶民の反発が革命に発展し、この「メキシコ革命」の理念を伝える手段として壁画が盛んに描かれた。メキシコで始まった壁画運動はアメリカにも大きな影響をおよぼし、多くの画家が社会的な問題意識を人々に訴える手段として壁画を描いた。
ロックフェラー・センターにはメキシコ壁画運動の第一人者であるディエゴ・リベラも招かれ、RCAビル75階で壁画を描いた。このとき助手となったのがベン・シャーン、ジャクソン・ポロック、野田英夫らだった。国吉康雄とディエゴ・リベラたちは、ほぼ同じ時期に同じ場所で壁画制作に取り組んでいたのだ。
しかしリベラたちが描いた壁画は、公開を待たずに撤去されてしまう。壁画は人々の闘争を主題にしており、その中心近くに、様々な人種に囲まれ、その手を取るロシア革命の指導者、ウラジーミル・レーニンが描かれていたことが問題視されたのだ。
ロックフェラー・センターで制作されたこれらの壁画には、絵画がもつ二つの機能が象徴的に表れている。一つは国吉の壁画のように「絵を見る人の状況を想像し、見る人がそれぞれの感情を抱くように促すこと」であり、一つはリベラの壁画のように「理想を説き、社会を動かしていこうとすること」である。壁画という手法は、空間そのものを作品化し、見る人を包み込むことで、ときに大きなインパクトを与える。画家たちは壁画がもつ力を知り尽くし、それを人々に向けて投げかけていたのだ。

※自身も壁画制作の第一人者として活躍した野田英夫と、国吉康雄の二人展が熊本県宇城市不知火美術館で開催中です。ぜひご覧ください。

Exile Dream of Hope 国吉康雄と野田英夫

P

Fishing Village漁村の風景

1920年 | 油彩、キャンバス | 41.0cm×31.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2018.10.22 執筆者:江原久美子

Fishing Village

国吉康雄の絵は暗くてとっつきにくい、とよく言われる。この作品もその一つだ。美しい風景が描かれているわけではなく、面白い物語が隠されているわけでもない。だがこの絵に私たちが惹きつけられるとしたら、それはなぜだろう?
この絵が展覧会に出されることは少ない。地味な作品だが、実物を見ると色が美しいことに驚かされる。国吉の絵はいつもそうだ。暗い色なのに、透明で、輝いている。この初期の作品にもその特徴がよく出ている。
描かれているのは、いくつかの家と、その向こうに見える海と空だ。天気は曇りで、全体に陰気な感じがする。窓には誰かが顔を見せているが、黙って外を見ているようで、やはり暗い感じ。白い広場か道に面した何軒かの家が、ごちゃごちゃと重なっている。こんなに近くに建っているのに、ここに流れているのは冷たく、寂しい空気だ。
この絵を描いた1920年ごろ、国吉康雄はそれまで通っていた画学校、アート・スチューデンツ・リーグを辞め、画家として独り立ちしようとしていた。グループ展には出品していたが、画廊で個展を開くようになるのはこの翌年からのことだ。このころのニューヨークには、ヨーロッパから新しい美術が次々に入って来ていた。国吉たち若い画学生はそれらを貪欲に見つつも、そのまま真似するのではなく「自分独自の表現」をつくりだそうと試行錯誤を続けていた。
このころまでの国吉の作品を見ると、ルノアール風の裸婦、セザンヌ風の風景画や静物画など、先人が何をどのように表現しようとしていたかを、国吉が懸命に知ろうとしていた様子がうかがえる。この「漁村の風景」についても、他の画家がすでに似たような構図や雰囲気を描いていたかもしれない。だがそれでもこの作品は国吉康雄が、彼独自の世界を切り開きはじめた記念すべき作品だと言える。現実と非現実の間にあって、何かを象徴しているのかいないのか、どんなメッセージがあるのかよくわからない、この「わからなさ」が、この作品にはあり、それが国吉の作品を生涯つらぬいていくことになる。
人と同じようなものかもしれないな、と私はこの絵を見ていると思う。誰かを理解しようとしても、次々にいろいろな面が見えてきて一言では言えない。なんだか好きだ、とか、どうにも合わない、と思うのも、はっきりした理由があるわけではなく、ただその人がそこにいて、私がここにいるという「ただ存在している」と、お互いに違うなあと思うだけだ。
だけどとにかく、同じ時代をともに生きて、時間をかけてその人のことを考える。その時間が重なっていくと、相手は(好きだろうが嫌いだろうが)、自分にとってかけがえのない存在になっていく。
国吉の絵について考えるということは、それと同じようなことなのかもしれない。好きだろうが嫌いだろうが気になる存在であり、もしかすると、絵のほうも、それを見ている人々についていろいろなことを感じているのかもしれない。

P

Photograph国吉康雄の写真

「パーティー・ウッドストック国吉邸(4)」 | 1938年 | ゼラチン、シルバープリント | 18.4cm×24.1cm | 福武コレクション蔵
更新日:2018.8.15 執筆者:江原久美子

パーティー・ウッドストック国吉邸(4)

横長の白黒写真、そこに写っているのははっきりとしたストライプ柄の日よけと、その下でテーブルを囲み、思い思いの格好でおしゃべりしている人々だ。14〜5人くらいが、晴れた日のガーデンパーティーを楽しんでいる。庭には何本かの木があり、遠くには山が見える。皆くつろいだ様子で、カメラに視線を向ける人は誰もいない。
1938年のある日、国吉康雄はウッドストックの別荘でパーティーを開き、画家仲間や画廊主など知人友人を招いた。この日、彼は愛用のライカで写真を撮り続け、「パーティー・ウッドストック国吉邸」と名付けた写真を20枚も残した。それらは記念写真でも記録写真でもなく、まして構図や光を考慮したアート作品でもなく、素朴な、ただそのとき見えたものをふと切り取っただけというスナップ写真である。
1935年、国吉は35mmフィルムの小型カメラを買い、どこに行くにも持ち歩いた。結婚したばかりのサラとのメキシコ旅行、友人たちと行ったコニーアイランド、マサチューセッツでの海水浴、学生たちとのピクニック、ウッドストックで休暇を楽しむ家族や友人たち、アトリエの窓から見えるユニオンスクエア、ニューヨークで開かれた万国博覧会、メーデーのデモ行進・・・。どの写真からも、国吉と、写っている人々の楽しい気分が伝わってくる。それらは公表するつもりのないプライベートな写真であり、あとで誰かに何かを伝えるためではなく、撮影しているそのとき、写す人と写される人が仲良くなるためのものだったのだろう。私たちは国吉の写真をとおして、彼が生きていた時代の空気感も感じることができる。1
一方で、国吉の写真には日常のスナップというには奇妙なものも多数ある。打ち捨てられた廃墟、非現実的に組み合わされた静物、女性のヌード・・・、国吉の絵画作品にたびたび登場するモチーフだ。だが国吉は、写真をもとに絵画を制作したわけではない。ただ、自分は何に興味があるのかを確かめようとしているようだ。
そう、私たちは国吉の写真を見るとき、彼の絵画制作のもっと前段階にある、目で見て心の中に取り込む前の、視覚のタネのようなものを感じることができる。モチーフになりそうで気になるもの、こうやって構図を切り取るといいのではないかというアイデア、流行の写真の様式を真似してみたもの、絵画作品としては描かないが、印象派や東洋趣味の構図をためしてみたもの・・・。彼はライカを使って、自分の視覚を試したり確かめたりする実験をしていたのだろう。
彼は1935年から1939年にかけて集中的に写真にとりくんだ。ヨーロッパで第二次世界大戦が始まった1939年、写真が趣味だと言い続けることに困難を感じ2、彼は写真をやめた。1941年の真珠湾攻撃後は敵性外国人とされ、彼のライカは警察に一時没収された。
国吉が撮り、現像した写真は、後年1980年代になってサラ夫人によって公表された。それらの写真は、国吉が感じていた、ものを見ることを楽しむという純粋な喜びを私たちに伝えてくれている。

1国吉康雄が残した写真は約400点。そのうちの約半数が福武コレクションに含まれている。
2“Telling Tokio, The Talk of the Town,” The New Yorker, 18, March 28,1942, P17

C

Caseinカゼイン

「安眠を妨げる夢」 | 1948年 | カゼイン、石膏パネル | 50.8cm×76.2cm | 福武コレクション蔵
更新日:2018.5.15 執筆者:江原久美子

安眠を妨げる夢

国吉康雄はさまざまな技法を使って絵を描いた。鉛筆やインクでの線描、リトグラフなどの版画、数は少ないがパステル画や水彩画もある。メインとなるのはやはり油彩画だが、1930年代後半から1940年代にかけて積極的に取り組んだのがカゼイン画である。「私は油彩の次にカゼインが好きだ」と彼が書き残した手記が残っている。
カゼインとは、牛乳から抽出したタンパク質の一種で、食品として利用されたり、固めてプラスチック状の素材として使われたりする。このカゼインを顔料(がんりょう)と混ぜたものが、カゼイン絵の具である。
ラピスラズリという青い鉱石や、酸化鉄の赤い色を利用するベンガラ、またさまざまな化学物質など、色のついた物質を粉末にしたものを顔料といい、顔料を画面(紙や布など)に定着させるために糊状のものと混ぜたものが絵の具である。顔料を油と混ぜると油絵の具、膠(にかわ)と混ぜると日本画の絵の具、卵黄と混ぜるとテンペラ絵の具になる。画家が自分で絵の具をつくる場合もあれば、市販されているものを利用することもある。カゼインに関しては、国吉は、チューブに入った市販の絵の具を使っていたようだ。
吉がカゼインを使って描いた作品には「安眠を妨げる夢」「少女よ お前の命のために走れ」などがある。鮮やかでありながら深みのある色合い、繊細な描きこみ、マットな表面の感じは、同時期の国吉の油彩画(たとえば「ミスター・エース」や「鯉のぼり」)と共通しており、一見しただけでは画材の違いを区別するのは難しい。
「私はカゼインを継続的には使わない。私は絵画制作の合間に自分をリフレッシュさせ、刺激してくれるものとしてカゼインを使う。」
と国吉は書き残している。
「カゼインは、私が油彩画を描く中で次の段階に行く方法を探そうと実験しているときに役立つ。実のところ私は、ひとつのメディウム(画材)の中での探検が、ほかのメディウムの中での発見につながることを知っている」
国吉にとってカゼイン画の制作は、油彩画制作のための重要な実験だったのだ。
では国吉に刺激を与えたカゼインの特徴とはどのようなものだったのだろうか。国吉自身の言葉から探ってみよう。

1 乾きが早い

「(油彩画において自分は)それぞれの状態から次のステップに進むために徹底的に乾かす。私はこれを何度も繰り返す。カゼインにおいて、私は同じやり方を踏襲する。」
国吉は、油彩画でも絵の具を徹底的に乾かしてから次に進んだようだが、カゼインは油彩画よりもずっと早く乾く。画面に塗って数分もするとすっかり乾き、他の色をその上に塗り重ねることが可能だ。

2 水に溶けやすい

「私はドローイングも色も変えたいとき、必要ならば土台の表面まで洗い流す。」
この、洗い流すという言葉は比喩ではない。カゼインはとても水に溶けやすく、画面に塗ったあとでも、文字どおり水で“洗い流す”ことができる。一度塗ってすでに乾いた部分も、もう一度水を含ませれば簡単に色を拭き取ることができるのだ。

3 マットな質感

「私はこの特異なメディウムの特徴である特異なマットな表面が好きだ」
マットな表面という特徴は「ミスター・エース」などこの時期の国吉の油彩画にも現れている。この乾いた感触は、文字通り湿っぽい感傷を突き放すような効果を生んでいる。

国吉は生涯にわたって、ひとつの画風に安住することなく、何を描くか、どう描くかを探求し変化し続けた。20世紀、めまぐるしく変わる世界の中で、根底から深く感じ、考え、人々に伝える、そのためにはどうしたらよいのかを多くのアーティストが、そして国吉康雄も模索しつづけた。国吉にとっては、時に画材を変えながら創作を続けること、それが模索のひとつの手段だったのだろう。
現在、カゼインという画材は、扱いが難しいせいか、ほとんど使われていない。しかし国吉の画業を考えるうえで重要なこの画材について、2014年には広島市立大学芸術学部美術学科油絵専攻641諏訪敦研究室による「模写プロジェクト」が行われ、2017年からは岡山大学教育学部国吉康雄教育研究寄付講座にてカゼインワークショップが継続的に行われている。カゼインという画材をとおして国吉はどのようなビジョンを得ようとしていたのか。それを徐々にでも知る手がかりになればと考えている。

i 本稿のすべての引用は次の資料による。
Kuniyoshi, Yasuo. "His method of making a casein painting"
In: Blanch, Arnold ”Methods and techniques for gouache painting" New York: American Artists Group, 1946. pp. 45-46, ills. pp.54-55
原文は国吉による英語(本稿の和訳は江原)。

F

Fukutake Collection福武コレクション

「化粧」 | 1927年 | 油彩 | 91.5cm×76.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2018.3.30 執筆者:江原久美子

化粧

このコラムで紹介してきた国吉康雄作品は、すべて「福武コレクション」のものである。福武コレクションとは「福武總一郎氏が所蔵する、国吉康雄作品および資料」のことで、絵画、版画、写真、遺品など計600点以上をかぞえる。国吉康雄のまとまったコレクションとしては日米合わせて最大級のものである。2015年、スミソニアン・アメリカン・アートミュージアムで開催された国吉康雄回顧展には、出展作品66点のうち15点が福武コレクションから貸し出され、存在感を示した。

はじまり
福武コレクションは、いつ、どのようにして始まったのだろうか。それは1970年代の岡山にさかのぼる。当時、福武書店(現ベネッセコーポレーション)の社長であった福武哲彦氏が、1979年に国吉康雄の「化粧」という作品に出会い、購入したのが始まりとされる。哲彦氏は「感傷的な味わいのある抒情に魅了され」「哀愁を漂わせた画風に深い共感を覚え」たとされ、同社はこのころ「二人の赤ん坊」や「自画像」「水難救助員」「休んでいるサーカスの女」などを次々に購入している。
哲彦氏自身の言葉によると「私共が収集を始めた動機といえば、私の個人的な趣味もさることながら、いささか郷土岡山の文化の向上にもお役にたちたいし、また、教育出版という社業にも何等かの形でプラス効果があると信じたからである」と述べ、また収集方針のひとつとして「岡山の生んだ国際的な画家国吉康雄をメインにワールドワイドな収集をする」としている。
岡山で創業した福武書店はこのころ事業を拡大し、国際的な展開も視野に入れていた。哲彦氏にとって国吉康雄は、岡山から世界へ、という志をともにする心強い先達だったことだろう。

考えさせるアート
福武書店が収集した美術作品は、社屋の廊下や執務室に展示され、社員が日常的に目にするものだった。また、社内に展示した状態で地域の人々を招待する日を設けたり、岡山の百貨店 天満屋をはじめ全国に巡回する展覧会に出展されたりしていた。
哲彦氏や社員にとって、国吉康雄の絵画は「壁にかかった綺麗な絵」以上のものだっただろう。「何が描いてあるのだろう」「自分は、この絵にはこのような意味があると思う」など日々感じるところがあったのではないだろうか。時には、絵の前で対話が繰り広げられることがあったかもしれない。
哲彦氏の遺志を継いだ福武總一郎氏は、1990年、社屋内に「国吉康雄美術館」をオープンさせた。そしてほぼ同時に香川県直島での現代アートのプロジェクトを始める。總一郎氏は後年「国吉康雄は、一見、直島とは異質なものに思われるかもしれませんが、時代と社会の中で自らの道を探し出し信念を貫いた彼の作品は、今も見る人に対して、あなたはどう生きるのか?と問いかけてきます。アートというものがこれほどまでに考えさせる力を持つということを私は国吉の絵画によって知り、それが直島でのアート活動を始める出発点となりました。」と語っている。見る人に「考える」ことを促す国吉作品の力、それが直島のアートの原点となったのだ。

現在、これから
「国吉康雄美術館」は2003年に閉館し、作品・資料は福武總一郎氏がベネッセコーポレーションから買い取った上で岡山県に寄託され、現在は岡山県立美術館で随時公開されている。また、スミソニアンでの展覧会と同様、国内でも、国吉康雄に関する展覧会に積極的に出展されている。
2015年、岡山大学教育学部に「国吉康雄研究教育寄付講座」が設置された。福武コレクションを活用した国吉康雄の研究と教育の可能性は、美術の範囲にとどまらず、より幅広い分野、つまり近代の社会、政治、思想、広範な文化、教育といった分野に広がる。同講座では学生とともに試行錯誤しながら、活動を続けている。国吉はいまも、今を生きる人々を考えさせ続けている。

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Lithographリトグラフ

「綱渡りの女」Tightrope Performer | 1936年 | 石版リトグラフ | 32.7cm×22.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2018.1.26 執筆者:江原久美子

Tightrope Performer

リトグラフは、別名「石版画」といい、石の板を使う版画のことである。たとえば木版画や銅版画では板の表面を彫って原版をつくるが、リトグラフでは、石の板(または金属の板)に、鉛筆やクレヨンなど油分を含む画材で図柄を描き、板の表面を化学的に加工して、描いた線の部分にのみインクが付く状態にする。これによりリトグラフには、元の線の濃淡や筆致を非常に繊細に紙に写しとれるという特徴がある。
国吉康雄は、画家として活動し始めていた1922年にリトグラフの技法を覚え、その後も制作を続けた。
国吉康雄のリトグラフには、どのような特徴があるのだろうか。
たとえば国吉康雄の油絵では、彼が感じたこと、考えたことが複雑に組み合わされ、現実にはありえないような抽象的な情景が描き出されている。または長い時間をかけてイメージを心の中で練り上げた女性像もあり、いずれも画家の精神が濃密に込められた、重みのある絵画である。
それに対してリトグラフでは「テーブルの上の果物」「窓辺の花」「カフェでくつろぐ女」「サーカスの演者」など、つまり国吉の絵にはおなじみのモチーフが描かれながら、油絵のように複雑に組み合わされたり不安定なバランスをとったりすることはなく、彼が見たシーンが写真のように切り取られ、そのまま作品として描き出されている。
国吉にとって油絵という手法がメインで、リトグラフはサブだったというわけではない。彼はリトグラフについてこう語っている。
「ひとたび作品が創り出されたら、それは決して繰り返されることはない。私の作品はたとえメディアが違っていても、決して同じ主題を繰り返したことはない。私は、各々の主題は、形やつり合いが注意深く考慮されるのと同じように、これと決めたメディアで制作されるべきであり、それは独立した作品となるべきである。」i
そして彼はこのようにも述べている。
「私はリトグラフは人々と直接触れ合うことが出来るメディアであり、重要だと考えている。オリジナルでありながら安価であり、そのことは、より多くの人々とのコミュニケーション・アートを意味するからである。」
1枚の原版から複数を刷ることができるリトグラフは、(油絵に比べれば)安価で、より多くの人々が買い求めることができるものだっただろう。そして国吉のリトグラフを買った人は、自宅のリビングルームや寝室に飾って毎日眺め、生活の中のやすらぎとしていたことだろう。
1930年代のアメリカでは、アートについての考え方として「見る人が自らの考えや経験から照らし合わせて、作品について思いを巡らせる。そして考えたことを共有する(ときには制作したアーティストとも)というやり方でアートは形作られていくのだ」という考え方が提唱され、社会の中で大きな流れとなっていた。国吉康雄のコメントも、このような社会の流れの中で語られたものだろう。
この頃、世界恐慌後のアメリカでは大量の失業者を救うため公共投資によって雇用を増やすという政策がとられた。その一環として設けられた「連邦美術プロジェクト」により、アーティストが公的な資金を得て作品を制作したり、コミュニティ・アート・センターを設立し、そこでアーティストがワークショップを行い、人々にとってのアートの学びの場になったりした。ここでも上記の「人々の経験によってアートは形作られる」という考え方がとられていたのだ。
連邦美術プロジェクトが、国吉康雄に依頼したのはリトグラフの制作だった。「綱渡りの女」はこのとき制作されたものである。
連邦美術プロジェクトは、アーティストが制作した作品を、主に学校に配布した。学校に配られた国吉のリトグラフ、また画廊を通して家庭に売られたリトグラフは、生活のなかで人々が見て感じ、話し合うという経験を得て、それぞれが「アート作品」となっていったことだろう。

i 国吉康雄「リトグラフについて」小沢律子訳「国吉康雄美術館 館報 No.4 」1993年7月掲載。(原文「スミソニアン・インスティテューション・アーカイヴス・オブ・アメリカン:アート所蔵の国吉康雄未発表エッセー(英文)」

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Landscape with Two Dogs二匹の犬のいる風景

1945年 | 油彩、キャンバス | 27.0cm×47.0cm | 福武コレクション蔵
更新日:2018.1.26 執筆者:江原久美子

Landscape with Two Dogs

国吉康雄は、彼の作品の中にさまざまな動物を描いた。牛や馬、ロバ、鶏、虫・・・そしてここでは、犬。草がまばらに生えた、乾いた土の斜面に犬が二匹いる。右側の茶色い犬は、左側の白い犬に対して挑みかかろうとしているような姿勢をとっている。やせこけていて、表情もするどい。白い犬の方は恐れをなして逃げようとしているようだ。
背景には二つのまるい頂上のある茶色い山と、灰色と白の曇り空が描かれている。暗い背景に、不穏な動きの犬たち。どうにも落ち着かない感じがする。
もしかすると、茶色い犬のほうは白い犬に対して別に敵意を感じているわけではなく、友達になろうと近づいているのかもしれない。でもその気持ちは白い犬に通じていない。二匹の犬の思惑はすれちがい、お互いを理解したり共感したりすることができない。
この絵が描かれたのは1945年。第二次世界大戦が終わり、世界がようやく平和を取り戻した年である。しかしそれは同時に、東西冷戦の始まりでもあった。世界中の人間が敵と味方に分かれて徹底的に殺し合い、その戦いが終わってもすぐに次の覇権をあらそって、ふたたび戦いが始まっていた時代。
この絵は、そんな世界の状況をあらわしているのだろうか。おそらく国吉康雄がこの絵を発表した当時の人々も、そのように思っただろう。人間たちが、世界をふたつにわけて陣営を組み、お互いを責め合って対立している。それと同じように、この二匹の犬もお互いを理解することができず、すれちがう。この不毛な、荒れ果てた土地で。
どうにも救いのない、活路の見出せないような絵だが、しかしこの絵を実際に見る人は、その色と筆致の美しさに驚くだろう。2015年のスミソニアン・アメリカ美術館での国吉康雄回顧展に出展されたこの絵は、貸し出しの前に、長距離の輸送に備えて入念な保存修復が行われた。その際、表面に塗られていたニス(後年、当時の保存技術として施されたもの)が現代の技術によって除去され、国吉が描いた当時の画面が表れたのだ。そこには、茶色や灰色や緑色といった暗い色調が使われながら、透明で奥行きのある、輝くような画面が作り出されていた。すでにアメリカ画壇の頂点に立っていた国吉が、その感性と技術を使って描いたのは、自分が生きている救いようのないような世界だったのだ。
暗い世界を暗いまま、そして同時に、美しく描く。複雑なものを複雑なまま描き出し、それを他の人に伝えることができる。そのような知性や感情を、人間は備えている。この絵には確かにそのことが感じられる。人間は救いようのない存在だが、一方でこのような美しいものを生み出す。絶望の中にも、希望が見える。どうしようもない人間の、複雑で美しい一面が、ここには表れている。

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To the Ball舞踏会へ

1950年 | カゼイン、石膏パネル | 50.5cm×35.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.12.22 執筆者:江原久美子

To the Ball

題名にある“Ball”とは、西洋における正式なダンスパーティーのことだ。華やかな社交的特色の強い正式なもので、招待された男女は燕尾服やイブニングドレスを着て出席するという。
国吉康雄がこの絵を描いた1950年ごろ、ニューヨークでそんな舞踏会へ行く機会があったのだろうか。
国吉の年譜を見ると、1948年、ニューヨークのホイットニー美術館で国吉康雄の回顧展が開かれている。アメリカ美術を顕彰・展示するホイットニー美術館は当時、「すでに亡くなったアーティストについてのみ、回顧展を企画する」という方針を持っていた。その方針を変えてまで、国吉康雄の回顧展を開いたのだ。
そのオープニングパーティーの写真を見ると、会場を埋め尽くす出席者たちの中央に、国吉康雄と妻のサラが座っている。舞踏会ではなかったかもしれないが、まさに華やかな社交の場であり、国吉にとってはおそらく一生のうちで最も晴れやかな、誇らしい日だっただろう。
一方、国吉はこのような手紙を日本の知人に送っている。
「(ホイットニーの回顧展では)自分のハラワタをウォール(壁)に掛けているようだ」。
画家が全身全霊をこめて描く絵画。彼の苦しみも、ユーモアも、欲望も、理性も、そこに表されている。そのようにして一生をかけて描いた作品たちが、大きな美術館に一堂に並べられている。画家にとって、それは体内を公衆の前にさらけだすようなものだっただろう。
壁に掛かっている作品は、表も裏もない自分自身だ、それに比べてパーティーに出席している生身の自分は、社交的な顔でその日の主人公を演じている・・・確たる記録はないが、その日の国吉の気持ちはそのようなものだったかもしれない。
この絵には、舞踏会へ行くために何重にも衣装をまとい、道化の帽子をかぶった人物が描かれている。男か女かもわからないし、まるで両腕を縛られているような不自由そうな格好だ。国吉の絵画に描かれる人物は、しばしば「国吉自身なのではないか」と言われる。自画像はもちろんそのほかの絵でも、男が描かれていても女が描かれていても、それは彼自身なのではないかと。
この作品もまた、本当の姿を見せない―が、その中に確実に存在している―画家自身を表しているのかもしれない。

本作品は、和歌山県立近代美術館での特別展「アメリカへ渡った二人・国吉康雄と石垣栄太郎」平成29年10月7日(土)―12月24日(日)に展示中です。

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Two Babies二人の赤ん坊

1923年 | 油彩、キャンバス | 76.2cm×61.0cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.11.15 執筆者:江原久美子

Two Babies

二人の小さな子どもが描かれている。
左側の子どもはオレンジ色のワンピースを着て、手に白い小鳥のおもちゃを持っている。女の子の服装だが、顔は全然女の子っぽくない。
右側にはおむつを着けた赤ちゃんが座っている。この子も赤ちゃんらしくない硬い表情で、画面の外の何かを見ている。
二人とも顔や胴体は丸々としているのに、手や足は不自然に小さい。こんな小さな足で立っていられるのだろうか。
子どもたちの頭上には緑色の大きなベルと、赤と緑のリボンが見える。これには何か意味があるのだろうか?
・・・ほかの国吉康雄の絵と同様、これも「何が言いたいのか分からない」絵である。二人の子どもを目の前にして描いたにしてはあまりにも不自然だが、不安や不快な感じはしない。なぜかとても惹きつけられる絵で、ずっと見ていても飽きない。
1920年代前半、国吉康雄はこの絵の他にも小さな子どもをたびたび描いた。後年の手記に、彼はこう書いている。
「人は、赤ん坊は美しいと思っているが、私はそうではないと思ったし、だからこそ赤ん坊ばかり描いたのだ。」1
「美しいとは思わないものを描く」とはどういうことだろうか。なぜ、国吉はそんなことをしようと思ったのだろうか。子どもは無垢な存在だと言われるが実は醜いのだ、とでも言いたかったのだろうか?
だれもが「赤ちゃんは可愛い」と言う。その中で、国吉は赤ん坊を全然可愛くなく、しかしとても魅力的な絵を創りだした。
この絵には、「美しさ」も「醜さ」も描かれていない。そのような、現実の世界で人々が見たり感じたりしていることを映し出しているのではない。
人々がまったく自然に感じている「赤ちゃんって可愛い」という気持ちを引っくり返して「赤ちゃんが可愛いのではなく、自分の絵が魅力的なのだ」というステージで、国吉は勝負したかったのではないだろうか。
人間は何万年も前から絵を描いてきた。それは何のためだったのだろう。
目の前にいる人やものを写し取ったり、宗教的な祈りの気持ちをこめたり、昔からの物語を描いて伝えようとしたり、自分の心の中にある風景や感情を形にしてみたりして、人間は膨大な量の絵を産み出してきた。
そして20世紀、画家たちは「何かを伝えるための手段ではない」純粋な絵画とは何か、を考えるようになった。他のもののためではなく、絵そのものに意味があり存在している、それはどういうものだろうか?画家たちは試行錯誤をくりかえし、その目まぐるしい変化がそのまま20世紀のアートの潮流となった。
国吉康雄もまた、「何かを伝えるための手段ではない、絵そのものとして存在する」作品として、これを示したのではないだろうか。彼は具象的なものを描きながら、全く別の次元を見ていたのだ。

1 “East to West.” Magazine of Art, vol.33.no2 (February,1940)より。原文は英語(江原訳)

本作品は、和歌山県立近代美術館での特別展「アメリカへ渡った二人・国吉康雄と石垣栄太郎」平成29年10月7日(土)―12月24日(日)に展示中です。

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Girl Wearing Bandanaバンダナをつけた女

1936年 | 油彩、キャンバス | 86.8cm×64.3cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.10.16 執筆者:江原久美子

Girl Wearing Bandana

女の人がひとり、籐椅子に寄りかかって両手でほおづえをつき、片方の手には煙草を持っている。顔はうつむきかげんで表情はよく見えない。悲しそうな感じでもあるし、何かをじっと考えているようにも、少しほほえんでいるようにも見える。頭に巻いた赤いバンダナが首の横から垂れ下がり、片方のひじの下に敷かれている。彼女が身につけているのはこのバンダナと、腰に巻いたピンク色の布───スリップか何かだろうか?───だけである。
彼女の肌の色はグレーがかかったブラウン、でも白や黄色も混ざった、とても微妙な色合いだ。そしてその肌とほとんど同じ色が、背景にも塗られている。
1930年代、国吉康雄はこのような柔らかな色合いの、ものうげな表情の女性像を数多く描いた。特定の女性を描いたのではなく、何人かのモデルをデッサンしたのち、半年ほど経ってから油彩画に取り掛かったと本人は語っている。女性たちのイメージを心の中で混ぜ合わせ、「ユニヴァーサル・ウーマン(普遍的な女、理想の女)」を描いたのだ、と。
彼女はどんな生活をしているのだろう。どこに住み、どんな仕事をしているのだろう?彼女の顔や身体の表情からは、家や男や組織に守られているという感じがしない。この人は自分の頭と身体をつかって働いて稼ぎ、世界の中でひとり、身を立てている人なのだろう。社会の中では弱い、でも人間としては強い、何十年も前のアメリカにいた女性を今も私たちはここに見ることができる。
こういった人を、自分が思い描く夢の女とした国吉康雄。彼もまた、世界の中でひとりの人間として、自分自身の力で生き抜いた。この女性は、彼の「同志」といえるのだろう。

本作品は、和歌山県立近代美術館での特別展「アメリカへ渡った二人・国吉康雄と石垣栄太郎」平成29年10月7日(土)―12月24日(日)に出展されます。

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Self Portrait自画像

1918年 | 油彩、キャンバス | 51.0cm×41.0cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.09.15 執筆者:江原久美子

Self Portrait

一人の男性の上半身が描かれている。国吉が、画家としてはごく初期の29歳のときに描いたもので、「自画像」というタイトルがついている。
丸く白い帽子、丸く黒い眼鏡、口ひげ、黒い蝶ネクタイ、白いシャツ。目や眉は黒く、ほほ骨が張り、顎は細い。肩はがっしりしておらず、なで肩である。アジアから来た青年が、西洋の服装に身を包んでいる。
彼の背後には、窓か額縁のような四角いものの一部が見える。そのほか背景には何もない。ただ彼が硬く口を結んでじっとこちらを見ているのだが、その彼も、写真でいうならピントがぼけているような、もどかしい感じである。
彼の左目はこちらを見ていて、目が合う。右目は小さく描かれ、どこを見ているかわからない。そういえば顔の形も、肩に入っている力も、左右でかなり違う。
この人物をタテに半分にわけて、右半分と左半分を見てみよう。向かって右側では、少し緊張した感じの若者がこちらを見下ろしている。眉はつりあがり、肩が張っている。その背後の壁に、窓か額縁が見える。
向かって左側は、目を細めて遠くを見ているような、悲しそうな目つきをしている。口は、端が下がり苦しそうだ。肩を落とし、蝶ネクタイもだらりと垂れ下がっている。まるでくたびれた老人だ。
右半分の青年は、「アメリカで画家になろう」という意欲をもつ当時の国吉康雄だろうか。だが左半分の老人は? たった一人で移民としてアメリカに渡り、何年も右往左往して疲れ果てた彼自身なのだろうか。画家として成功するかどうかわからない不安定な将来の自分なのか。それとも故郷に置いてきた父親なのか。あるいはアメリカで苦労を重ねている多くの日系人たちなのだろうか?
いずれにしても、全くの他人ではなく、国吉と密接なつながりのある人である。画家として歩もうとしている若者と、翻弄され疲れ果てた老人。国吉の中には、二人の人物がいる。彼の絵はいつも一筋縄ではいかない二面性を含んでいる。それはすでに最初から、彼自身が相反する複雑な内面をもつ人物だったからなのだろう。国吉康雄はこのあと生涯にわたって、彼自身の心の中と、彼の目に見えるものがないまぜになった独特の絵画を描き続けていく。それらは、静物や女性や風景を描きながらも、常に彼の自画像だったのかもしれない。

本作品は、和歌山県立近代美術館での特別展「アメリカへ渡った二人・国吉康雄と石垣栄太郎」平成29年10月7日(土)―12月24日(日)に出展されます。

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Mother and Two Children戦争ポスターの習作(母と二人の子ども)

1943年 | 鉛筆、紙 | 53.3cm×40.6cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.08.16 執筆者:江原久美子

Mother and Two Children

軍服を着た子どもが、着物姿の女性の手をとり、右手が指さすほうへ行こうとうながしている。女性はそちらをじっと見ているが、膝を曲げて腰を引き、行きたくない様子である。もう一人の子どもが彼女に背負われているが、その子どもも軍服を着て羽根つきの軍帽をかぶり、手には旭日旗、つまり日本軍の旗を持っている。二人の子どもの顔は見えないが、女性の横顔はけわしく悲しそうな表情だ。
国吉康雄はこのような場面を実際に見たのだろうか。それとも何かの象徴としてイメージしたものを描いたのだろうか。
実際に見た場面だとすると、国吉が一時帰国したときのことだろう。国吉が帰国したのは1931(昭和6)年10月、その直前に満州事変が起こり、日本各地で兵士が出征していた。これは出征を見送っている家族なのかもしれない。子どもは兵士となる父親を勇ましくて誇らしいと思っているが、子どもたちの母(あるいは、高齢のようにも見えるので祖母とも言われる)は、夫の先行きと、残される自分たち家族の将来を案じ、悲観する表情を見せている。
あるいはこのようにも考えられる。この女性の着物は黒一色で、まるで喪服だ。彼女の夫(あるいは息子)はすでに戦死し、その遺骨を受け取るところなのかもしれない。子どもたちが儀礼的な服装なのはそのためだろう。子どもたちは無邪気だが、彼女は現実を受け入れがたく、足が前に進まない。
どのような状況だったのかはわからない。だが彼女の表情や体の動きを見ていると、彼女が戦争に対して抱いている悲しみ、辛さ、憎しみ、悔しさが伝わってくる。
国吉は、帰国から約10年後にこの絵を描いた。彼は日本で実際にこのような場面を見たのだろうか。しかし写実だとしても想像だとしても、ここに表されているのは、彼自身が強く感じた事実だろう−−−戦争が、兵士ではない女や子どもたちに対して、いかに過酷なことを強いるか、いかに辛い感情を起こさせるか、ということだ。
国吉康雄は1941年(昭和16)の日米開戦によって「適性外国人」という立場に置かれたが、他の多くの在米日本人とは異なり、日本には帰らなかった。若くして単身でアメリカに渡り、アメリカの自由と平等を重んじる理念の中で、周囲の人々に助けられ人生を切り開いてきた国吉は、アメリカに忠誠を誓い、アメリカの画家として活動を続けたのである。
当時、アメリカ合衆国の機関である戦争情報局(United States Office of War Information)は、日本との戦争の正当性を強調し、アメリカ人の戦意を高揚させるためのポスターを描くようアメリカ国内の画家に依頼した。国吉康雄もその仕事を引き受け、日本軍の残虐さを訴える下絵を何十枚も制作した。ここに挙げた作品もそのうちの一点だが、この絵に表されているのは日本への敵意というよりも、さらに普遍的な主張——戦争そのものに対する抗議、平和を願う気持ちである。
当然ながら、この絵は戦意高揚ポスターには採用されなかった。おそらく国吉自身もこの絵が採用されるとは思っていなかっただろう。それでもひとつの作品として完成させずにはいられなかった国吉の反戦への強い思いが伝わってくるようだ。

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Sara Mazo Kuniyoshiサラ・マゾ・クニヨシ

「サラ・クニヨシ(3)」1938年 | ヴィンテージ・ゼラチン・シルヴァープリント | 23.4cm×26.2cm | 撮影:国吉康雄 福武コレクション蔵
更新日:2017.07.14 執筆者:江原久美子

サラ・マゾ・クニヨシ

この女性は、国吉康雄の妻 サラである。彼女は、カメラをもつ国吉のほうを見て微笑んでいる。日常のスナップというより、少しかしこまったポートレイトという感じだが、表情はおだやかで、リラックスしている。
背後の壁にいくつか重なって映し出されている影は、彼女の内面を象徴しているようだ。サラはどんな人だったのだろう。優しくて、でも芯の強い人だったのではないか・・・。このように、見る人に想像させること、それこそが国吉康雄のたくらみだったのではないだろうか。この写真を見る人は、彼女の顔立ちだけではなく内面の美しさを思わずにはいられない。控えめな写真のようでいて、国吉は、妻がいかに魅力的な女性であるかを大いに主張している。
サラ・マゾは、1935年に国吉康雄と結婚した。サラが25歳、国吉が46歳のときである。夫がそうであったように、彼女もまた、20世紀のアメリカにおいて、自らの意志で選び取った人生を生きた。
1910年7月4日、アメリカ独立記念日にニューヨークで生まれたサラは、当時最先端だったモダン・ダンスのダンサーとして、またオフ・ブロードウェイの舞台女優として活動していた。1932年、公演先のウッドストックで演出家が売上を持ち逃げするという事件が起こり、急きょお金が必要となったため、舞台の背景を描いていた画家の紹介で国吉のモデルを務めたことが、サラと国吉との最初の出会いとなった。
結婚後、サラは舞台の仕事をやめ、1941年からはニューヨーク近代美術館(MoMA)でアシスタントとして働き始めた。戦争や、国吉の看病などにより何度か中断したものの、同館の作品登録部門や写真部門、絵画・彫刻部門で1975年まで働き続けた。後年、同館が彼女に対しておこなったインタビューでは、内部のスタッフとして見ていたMoMAの姿が生き生きと語られている。
退職後、サラは、自分に残された国吉の作品や資料を管理し、必要に応じて国吉に関する助言を行った。日本にも何度か訪れ、岡山の人々とも会っている。彼女をとおして国吉康雄を身近に感じた人も多いことだろう。彼女は、国吉がアメリカで評価された画家であることを常に言及しつつ、「日本においても評価が高まっていることは、二重にうれしいことです」と述べ、1990年の「国吉康雄美術館」(注1)開館にも協力した。このとき彼女が寄贈した国吉の遺品——イーゼルや机、画筆など——は、今も「福武コレクション」(注2)の重要な構成要素となっている。
サラ・マゾ・クニヨシは、多くの人々と交流を続け、2006年にニューヨークで亡くなった。いまはウッドストックのアーティスト墓地で国吉康雄とともに眠っている。

注1: 国吉康雄美術館
1990年、岡山市のベネッセコーポレーション(当時は福武書店)本社ビル内にオープンした美術館。
同社が所蔵していた国吉康雄作品および資料を展示・公開した。2003年、閉館。

注2: 福武コレクション
ベネッセコーポレーションが収集・所蔵していた国吉康雄の作品と資料は、2003年、福武總一郎によって一括購入の上、「福武コレクション」として岡山県立美術館に寄託された。絵画、版画、写真、遺品など計600点以上の規模で、国吉康雄のものとしては世界最大のコレクションのひとつ。

参考
The Museum of Modern Art Oral History Program, Interview with Sara Mazo, 18 November 1993
https://www.moma.org/momaorg/shared/pdfs/docs/learn/archives/transcript_mazo.pdf
サラ・メイゾ・クニヨシ 1989年「チャーミングな素顔 池田満寿夫対談—夫 ヤスオ・クニヨシを語る」『ニューヨークの憂愁 国吉康雄 その生涯と芸術』日本テレビ放送網株式会社
サラ・マゾ・クニヨシ 1990年 「ごあいさつ」、『YASUO KUNIYOSHI ネオ・アメリカン・アーティストの軌跡』福武書店

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La Toilette化粧

1927年 | 油彩 | 91.5cm×76.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.06.15 執筆者:江原久美子

化粧

女性が椅子に座り、片手をあげて耳元の髪に当てている。もう片方の手は下半身を中途半端に覆う布をたくし上げている。微笑んだ顔の視線は斜め上を向いている。赤いスリップを着ているが、片方の肩ひもは肩からずり落ちている。胸元から上は露出されているのに、足には黒いタイツを履き、さらには、これも片方だけだが、女性らしい華奢な靴をつっかけている。豊満でセクシーさに満ちた、それでいて愛嬌のある、優しい感じの人だ。私たちは、この女性を隅々まで見て、その魅力を味わう。
彼女は何をしているのだろうか?「何かをしている」というには不自然で、どうみても「画家のためにポーズをとっている」という感じだ。この女性も「絵描きがこうやれっていうからやってるのよね」とでも言い出しそうな表情である。
背後には植物の柄のあるカーテンがかかっていて、小さなテーブルにはブラシと、花が生けられた花瓶が置いてある。暖かな色合いともあいまって、彼女自身の雰囲気と同じような女性らしい空間である。
この絵のように、空想ではなく目の前にあるものを描くということは、国吉にとっては画期的なことだった。これ以前国吉は、心の中でふくらませ、組み合わせたイメージを描くことが多かった。しかし、1925年代に訪れたパリで多くの画家たちがモデルを写生しているところを見て、また友人であるパスキン(注1)に勧められ、モデルを前にして描くようになった。この作品は、そのような変化の時期に描かれたものである。
この作品は、福武コレクションがはじまったきっかけでもある。福武書店の創業社長 福武哲彦が最初に見た国吉作品であり、この作品に惹かれたことから国吉作品の収集が始められたと言われている。
「福武書店30年史」(1985年)では、福武哲彦氏は国吉作品の「感傷的な味わいのある叙情」や「哀愁をただよわせた画風」に魅了された、とされているが、この絵を見ていると、福武氏は、まずはこの作品に描かれた彼女の魅力、まさにその力の強さに引き寄せられたのではないだろうか・・と思わせられる。

注1:
ジュール・パスキン(1885-1930)
ブルガリア出身の画家。1920年代のパリで活躍した。このころパリではピカソやシャガール、フジタをはじめ、各地から多くの芸術家が集い、ボヘミアン的な生活の中でそれぞれの芸術を模索していた。パスキンは繊細で震えるような輪郭線と、淡く、真珠のような輝きを放つ柔らかな色合いで女性や子どもを描き、人気を博した。パスキンは1910年代にニューヨークでも活動しており、国吉康雄と親交があった。

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Fish Kite鯉のぼり

1950年 | 油彩 | 76.5cm×125.7cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.04.28 執筆者:江原久美子

鯉のぼり

横長の画面に、赤い鯉のぼりが大きく描かれている。その口からは何かどろりとしたものがはみ出している。鯉のぼりは空を泳ぐのではなく、胴体の下の人物に抱えられているようだ。しかし鯉のぼりの目には力があり、口のあたりは立体的で、まるで生きているように見える。
鯉のぼりを下から抱えている人物、また周囲に描かれている人たちは、曲芸をしたり、道化師のような扮装をしている。ここはサーカス小屋なのだろうか。
この絵を子どもたちと一緒に見ると、彼らは、描かれているものを手掛かりに、自分がもっている知識や感覚を総動員して、想像を働かせる。——文字の書いてある看板と同じ高さだから、ここはかなり高い場所だと思う。だからこの斜めの棒は綱渡りの綱なのではないか。いや、この棒は鯉のぼりを突き刺している、だから鯉のぼりは苦しんで内臓を吐き出しているんだ。この下の方の人は鯉のぼりを泳がせようと、しっぽをヒラヒラと動かそうとしているのではないか。この人たちはサーカスをしているから、この絵を見ている僕たちもサーカスの小屋の中にいるんだよね。等々。
国吉康雄の絵がいつもそうであるように、この絵には解答は示されていない。
しかし国吉康雄の絵にしては珍しく、この絵には明確な意味を表す記号が描かれている。右上の「JULY4」—7月4日、つまりアメリカ独立記念日である。
アメリカ独立宣言には、アメリカ合衆国の根幹をなす考え方、つまり「すべての人は平等であり、生命、自由、幸福を追求する権利がある」という言葉が記されている。この考え方に賛同する人々によって、この国は成立している。
少年のころ単身で渡米した国吉康雄は、そのような社会で学び、成長し、画家となった。そして日米の戦争の間はアメリカを支持し、日本の軍国主義は世界の自由と民主主義を侵すものだと厳しく批判した。
戦後、国吉康雄は、全米美術家組合の初代会長、ホイットニー美術館での大回顧展、ベネチア・ビエンナーレでのアメリカ代表など、アメリカの画家として最高の栄誉を得た。それは長い間、アメリカにおける独自の絵画を追求し、それを創り上げたことに対する評価だった。
栄光に包まれた国吉康雄が、1950年という時期にあえて「日本」について描いたのがこの絵である。
彼の作品にはいつも、光と影、陽気さと陰鬱さ、美しさと醜さといった相反する要素が表裏一体となって織り込まれている。この絵にも、幾つものエピソードや意味が含まれているが、この絵が描かれてから67年を経た今もなお、私たちがとくに強く感じる点は、次のようなことではないだろうか。
1950年当時、繁栄を謳歌していたアメリカでは、日本に対して、そして世界の人々に対してどのような考えを持っていたのだろうか。日本は自らの占領下にある友好国であり、ソ連をはじめとする共産圏は相容れない敵国である・・・そのような、世界を分け隔てる考えではなく、異なる見方を国吉はここで提示しているように思う。
この絵では、鯉のぼりは苦しそうにも見えるが、しかし一方で力強く、生命力を感じさせる。日本の鯉のぼりは長い間、子どもたちの成長を願って人々が大切にしてきた風習である。アメリカ人がかつて憎み、打ち負かした日本にも豊かな文化と人々の生活と心があり、それは敗戦後の今も、たくましく生き延びようとしている。
アメリカ独立宣言が告げるように、すべての人は平等なのだ。アメリカだけでなく、日本も、またその他の人々も含め、世界中の文化と人々の心が尊重されるべきなのだ。私たちは、この絵のように、ひとつのサーカス小屋の中にいて、時間と場所を共有しているのだ、と。

J

Japanese Toy Tiger and Odd Objects日本の張り子の虎とがらくた

1932年 | 油彩 | 85.3cm×125.7cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.04.14 執筆者:江原久美子

日本の張り子の虎とがらくた

テーブルにいろいろなものが乗っている。が、中でも気になるのは、こちらを見ている張り子の虎だ。
虎はまん丸い目を見開き、歯を出して笑っているようだ。黒い鼻、眉や口ひげ、虎としては奇妙な大きな赤い耳、斜め上に向かって長くのびた尻尾。なんだかマンガのようだ。一方で、突っ張った4本の足はいかにも「置き物」といった感じで、生気のある表情とはちぐはぐな印象だ。
その周りには、大きな水差し、赤いバンダナ、ひものついた双眼鏡、白い茶碗のような器、何本かの細長い円筒状のもの、カーテンを止めておくタッセルのようなものが横長の四角いテーブルの上に置かれている。テーブルの背景は黒っぽい色で塗られていて、ここがどういう場所なのかわからない。まるで写真撮影用の背景布の前に置かれたオブジェのようだ。そう、このテーブルの上のものは、「見られるため」「描かれるため」に置かれているのだ。
これは画家が「静物画らしい静物画を描こう」と意図して、対象物を選び、アトリエのテーブルに注意深く配置して描いた絵なのだろう。水差しやバンダナなどは、「いかにも静物画らしい感じ」を醸し出すために選ばれているように思われる。それらを国吉は卓越した技術で描いた。構図、色の選び方、重ね方、筆の運び方が非常に的確で、そして仕上がった絵は国吉独特の、ほかの誰にも真似できない1枚である。「上手い。そして上手いだけでなく独創的だ。国吉はプロフェッショナルな画家なのだ」と感じさせるために、この絵は国吉が示した見本なのだろう。
しかしそれにしても、この張り子の虎は何だろう。
「この虎の置き物は何だ?何を意味しているんだ?」と、1930年代のニューヨークでこの絵を見たアメリカ人たちも思ったことだろう。「たぶんこれは日本に由来するものだろう。クニヨシは、自分が“日本の文化を背景に持っている”ことを主張しているのだろうか? 虎はなんだかずいぶん笑っているようだが・・・」と、煙に巻かれたような気になったのではないか、と思う。
そして現在でも、この絵に対しては「国吉は郷愁を感じ(注1)、日本の張り子の虎を描いたのだ」「自分は二つの祖国のはざまにあるというアイデンティティを表している」「アメリカで画家として生き抜こうという決意を表明したのではないか」(注2)、そして「これらのものの組み合わせは意味ありげではあるが、結局のところ何を表しているかわからない」など意見百出で、皆、依然として煙に巻かれたままなのである。
この絵を見て誰もが最初に感じる「何だか変だな」という違和感、深刻なようでちょっとふざけているような感じ。そういった心の動きを、国吉は見る人と共有したかったのではないだろうか。国吉康雄は絵を描く能力だけではなく、アメリカという国で、画家としての自分をどのように見せ、売り込むかというプロデュース能力に長けていた。その彼が、見る人の思考や心の動きをうまく誘導しつつ、それでも、絵を見る人と自分との間でともに持ちたかったのは、そのような心の動き、明るいユーモアといったものではないだろうか。張り子の虎の口から、国吉康雄の笑い声が聞こえるようだ。

注1:
国吉康雄はこの絵を描いた前年、危篤の父親を見舞うために数十年ぶりに岡山に帰郷した。そして岡山で張り子の虎を購入し、アメリカに持ち帰った。

注2:
国吉康雄は、帰郷のあと「自分は日本よりむしろアメリカのほうに属している」と思ったことを後年述懐している。
「私は日本への帰郷を楽しんだが、これほど長く離れていた後では、順応するのは難しいと思った。奇妙で不自然だと感じた。私はそこには属していなかった。(略)私は1931年の2月に帰りの船に乗った。私自身が選んだ家が自分の家なのだと強く思いながら。私は再び、子供の頃の夢だった岸に着いた。今回は友人たちが挨拶してくれ、奇妙さを感じない国(アメリカ)に帰って来られて嬉しいと思った。」(”East to West,” Federation of Art Magazine, 1940年2月より、江原訳)

C

Chicken Yard鶏小屋

1921年 | 油彩 | 50.8cm×40.6cm | 福武コレクション蔵
更新日:2017.02.28 執筆者:才士真司

鶏小屋

さぁ、この作品。一見すると、「なんなんだ」と言いたくなる。だがこの作品、確信的なものだとしたならどうだろう。
よく言えば、素朴な味わいのある絵だと言えなくもないこの作品をじっくり見てみる。この鶏。それにタイトルにある鶏小屋の描き方というのは、フォークアートと呼ばれる開拓時代のアメリカの絵画作品の様式によく似る。模倣と言ってもいい。国吉は、自身がアメリカに渡る100年ほど前に描かれた様式を取り入れた。一方でこの不思議な構図は欧米的なものではない。けれど、どこかで見た覚えはないだろうか。想像して見てほしい。この絵が油彩画ではなく、墨による線描だとしたなら。この鶏たちをはじめ、描かれているアイテムを日本画的なものに置き換えみて、例えば若冲の鶏がそこにいたなら。もちろんかなり想像力を逞しくする必要はあるが、鶏や風景の配置が日本のそれだということに気づかないだろうか。これは、遠くのものを上の方に。近くのものを画面の下に配置する鳥瞰法で描いているのだ。鶏は陽光のなか、餌をついばんでいるが、小屋のなかは暗く、止まり木の鶏たちは眠っている。つまり昼と夜、ふたつの時間が絵のなかに存在していて、これも時間経過をひとつの画面のなかに存在させてしまう日本画的な表現だ。
ではなぜ、国吉はこんな絵を描いたのか。この絵は移民である国吉が、その才能を支援するアメリカのシステムや人々によって画家としての道を歩み始めた頃の作品だ。この頃の国吉を評した言葉に、「東と西を心の中で溶かした」というのがあるが、妙に納得をしやしないだろうか。この頃の欧米では、ジャポニズムブームがまだ続いており、日本的な技法を取り入れた絵画作品が流行していた。加えて、「クニヨシ」という名前だ。のちにラジオは、国吉を「日本のスーパースターと同じ名前を持つ」と紹介する。これは歌川国芳のことで、つまりこの作品は、デビューを目指す若い日系の画家の戦略の賜物で、母国の特性とチャンスを与えたアメリカの原点ともいうべき美術表現をそれぞれ組み入れた作品なのだ。そして狙い通り、この作品を始め、国吉最初の個展に並んだ一風変わった作品たちは激賞され、国吉はニューヨーク画壇に鮮烈なデビューを果たすことになる。

P

Picnicピクニック

1919年 | 油彩 | 76.5cm×91.5cm | 福武コレクション蔵
更新日:2016.11.30 執筆者:才士真司

ピクニック

この絵が描かれた1919年。国吉は『アート・ステューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク』(以降、リーグ)に在籍していた。
国吉がリーグに入ったのは、1916年。いくつかの美術学校を渡り歩いた国吉は、4年間、ここで絵を学ぶ。国吉が指導を受けたケネス・ヘイズ・ミラー(1876-1952)は写実主義の画家で、ヨーロッパの巨匠たちが遺した名画に詳しく、ドローイングの大切さやルネッサンス絵画の解釈など、先人の技術を学ぶことを生徒たちに教えた。メトロポリタン美術館に生徒たちを連れ出し、実際に、歴史的名画に触れる機会の重要性を説き、自身はそういった伝統的な技法と現代のアーティストが取り組むべき「テーマ」の融合を目指し、ニューヨーク市民の日常を描いていた。国吉は、「彼(ミラー)は、私の芸術に対する認識を変え、それまで何の意識も持たなかった私は、ひとつの方針と主題を持つようになったのである」と語っていて、1年遅れてリーグに入学した清水登之は、「国吉はいつもミラーのクラスに居残って勉強していた」と、国吉が帰国した際の新聞記事に書いている。一方で同じくリーグに通っていた北川民治は、のちに国吉の妻となるキャサリン・シュミットらと、セザンヌやルノアールについて議論したと証言していて、印象派などの美術動向に関しても画学生たちが関心を持っていたことがうかがえる。
こうしたリーグの環境や仲間との議論、ミラーの教えや創作に対する姿勢といった、当時の国吉の興味や気分を如実に現しているのが、この作品、『ピクニック』ではないだろうか。
陽光のなか、若い男女がくつろいでいる。国吉たちはよくピクニックに行ったらしい。国吉にとっては日常を描いたものなのかもしれないが、国吉らが研究していた技法の成果が画面からは溢れている。そしてどこか師のミラーの作品のような神秘的で、宗教画のような荘厳な印象も受ける。ただ、これほど暖かく、優しさに溢れた絵を、この先の国吉作品で見ることはない。そういった意味でも、岡山の国吉康雄コレクションで重要な作品だといえる。

I

Izushicho出石町(いずしちょう)

クレジット:2013年国吉康雄フラッグ第1弾
更新日:2016.10.17 執筆者/才士真司・取材/伊藤駿

出石町

岡山県岡山市北区出石町は国吉康雄が生まれ、16歳までを過ごした町だ。国吉の父はここで人力車夫の組頭をしていたと言われているが、それはこの町が日本三名園の一つに数えられる後楽園を中心とした観光名所を橋一本で繋いだ門前町であり、交通の要所でもあったからだろう。今でも週末になると大勢の人が、後楽園や国吉と同時代に活躍したアーティスト・竹久夢二の画業を伝える竹久夢二郷土美術館を目指し橋を渡る。
出石とは「出る石」と書くが、その由来は江戸時代に起源があるらしい。当時、商業流通というものは河川を使うのが主流で、旭川の川上からも相当数の川舟が常時下ってきた。そういう荷船の発着を容易にする石の足場が、出石の辺りに多く設置され、そこから出石と呼ばれるようになったと教えてくれたのは、もう4年目となった月に一度の「出石国吉康雄勉強会」の代表で郷土史を研究する御仁だ。そう、この町は岡山の、いや、日本の国吉康雄研究の発信地でもあるのだ。1945年の岡山空襲の被害を逃れた町である出石には、明治や大正、昭和といった様々な時代の建物が町内各所に残り、「そういえば親父が『ヤス(国吉康雄の愛称)が、ヤスが』と話していたのを覚えている」というような話を町の方から聞いたりすると、ここにいると少し、国吉のいた頃を感じられたりする。そんな出石は、「岡山の文化芸術文のへそ」でもある。前述のレトロ建築は、古着屋や昭和モダンな小物店やカフェに代わり、若者文化の発信地となっている一方で、「岡山カルチャーゾーン」と名付けられた文化施設が集まる地区の中心地点が出石なのだ。出石の周辺には前述した後楽園や竹久夢二郷土美術館のほか、黒い外壁から“烏城”と親しまれる岡山城。刀剣の至宝を収める県立博物館。雪舟など日本画の名品が揃う県立美術館があり、当代一級の古代オリエントの遺物を鑑賞できる岡山オリエント美術館や国宝を多数有する林原美術館などもある。
国吉から始まる出石町とその周辺の探索というのも、オススメだったりするわけだ。

G

Girl No,2『ここは私の遊び場』

1947年 | 油彩,麻布 | 68.6cm×111.8cm | 福武コレクション蔵
更新日:2016.09.15 執筆者:才士真司

Girl No,2

『少女よ、お前の命のために走れ』という1945年の作品で国吉は、少女が駆けていく先に、薄日射す空の下に続く一本の道を描いていた。その道に先があるとしたら?
翌年に描かれた『ここは私の遊び場』という作品にその道があって、この作品にも少女が描かれた。だが、この作品の少女は「命のために」走ってなどいない。タイトルの通り遊んでいるのだ。しかも崩れた建物、廃墟でだ。前年の作品では判らなかった少女の表情も分かるし、身につけているワンピースも鮮やかに見える。作品の置かれた環境の差による劣化のせいなのか、前年の作品にはなかった雲間に描かれた青空のせいなのか。この絵には他にも気になる点がある。黒い目玉のようであり、国吉の生まれた国の旗のようにも見える布が、国吉作品に度々登場する十字架のようにも見える廃材に引っ掛けられている。布には小さな穴がいくつも開いていて、それが元からなのか、例えば銃弾の痕なのか、そういうことはまるでワカラナイ。少女が遊ぶ廃墟には幾つかの消え掛かった文字や数字、手差し記号もある。廃墟が元はなんだったのか。それも分からない。そして、この作品には似た作品がある。国吉の友人であるベン・シャーンが、ナチスの支配から脱した荒れ果てたパリで遊ぶ子どもたちを描いたシャーンの『解放』という作品だ。1944年のこの作品の少女たちには、タイトルや描かれた時期にもかかわらず、笑顔はない。国吉は第二次世界大戦が終わった翌年にこの絵を描いた。国吉にとっては、このシャーンの作品も、自身の作品にメッセージを宿す「暗号」の役割を果たしているようにも思える。
そのシャーンは、「ヤス(国吉のこと)のことなら何から何まで私は熟知している」と言い、「(国吉の作品は、)何か捉えがたい、何か考えさせる間は、何かに憑かれてしまうような、何か未知の世界に引きずり込まれていくような気がしてならないと言わしめるのだ」と、評した。
この作品は今、香川県直島のベネッセハウスミュージアムに展示されている。

G

Girl No,1『少女よ、お前の命のために走れ』

1946年 | カゼイン、石膏パネル | 35.5cm×50.8cm | 福武コレクション蔵
更新日:2016.07.15 執筆者:才士真司

Girl No,1

大きな斧を振りかざすカマキリとバッタが対峙する彼方を、小さな女の子が裸足で駆けていく。この絵のタイトルは『少女よ、お前の命のために走れ』という。一見すると、この世のものとは思えない景色だ。少女が小さいのか昆虫たちが巨大なのか判然としない。少女の駆ける先には曇天の空の下に続く、一本の道がある。この絵の意味するところは、ワカラナイ。それでもこの厚い雲を透かし、日差しの予感を感じさせる、黄金色の大地が描かれた光景を見る機会を得た人たちは幸せだ。晩年に続く偉大な画業の幕開けともなるカゼインで描かれたこの絵の色彩は、とても美しい。
国吉作品の絵解きは、盛んに行われてきた。けれど、画家自身は、それをしていない。
アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨーク以来の友人で、画家のアレキサンダー・ブルック(1898–1980)は、国吉に宛てた献辞に、「批評の多様性」によって、個々の作家のそれぞれの作品を説明しようという試みがなされてきたが、そのことごとくが、「惨めな失敗」に終わってきたと前置きしてから、「真実に最も即した批評家とは、芸術というものについては何も知らないが、私が何を好きかは知っていると言える人々のこと」と続け、自分もそういう者だとした上で、こう結んだ。
私が好きなもの。賞賛し、尊敬し、栄誉あるものとして愛してやまないのは、国吉康雄が残した生涯に渉る作品たちだ。
と、言われても気になる。せめてひとつなりとも、想像のヒントとなるようなことを考えてみよう。この作品が発表されたのは、1946年という年で、第二次世界大戦が終わった翌年のこと。だがここに、アメリカの祝勝ムードというのは感じられない。事実、国吉は次の戦いに身を投じている。それは、国吉の残りの人生をかけた戦いとなる。全米のアーティストたちの社会的地位の向上と、人種を問わない平等な権利の獲得のための闘争が、国吉という偉大なカリスマの登壇を望んでいたのだ。

C

Crownクラウン

1949年 | グワッシュ・紙 | 152cm×205cm | 福武コレクション蔵
更新日:2016.06.15 執筆者:才士真司

Crown

戦後、国吉は日系人の強制収容や、原爆の被害者を支援するための活動を行う。日本に行くことを希望し、陸軍に志願もしたがポストがないと断られた。国吉はウッドストックでチャリティーを開き、大勢の前で即興で絵を描くと、その収益金を強制収容された人々に寄付する。
一方、1946年から1947年にかけて、アメリカ国務省が作品を買い上げ、その主催で開催された巡回展、『前進するアメリカ美術展』が、マスコミによるネガティブ・キャンペーンなどにより中止に追い込まれた。イリノイ州選出のある下院議員が議会でした発言で、当時の状況がよくわかる。
納税者の負担で国務省が巡回させている(国吉康雄作の)『休んでいるサーカスの女』やほかのクズみたいな作品は、外国で害を撒き散らしている。アメリカ人をぞっとさせたあの絵、『休んでいるサーカスの女』は、素晴らしいアメリカ美術の代表として国務省が外国に送り出したとんでもない絵画の典型だ。
こういった発言の背景には、国吉のこれまでの様々な活動や国吉の身分であって、この展覧会の原資がアメリカ国民の血税であることが強調され、敵国人である国吉が国家の代表でいいのかと暗に、時に直接的に叫ばれた。この、『前進するアメリカ美術展』で湧き上がったバッシング騒動が拡大していた、1949年のチャリティーで描かれたのが、『クラウン』だ。
肉を包むのに肉屋が使っていたため、ブッチャーズペーパーと呼ばれる厚手の茶紙に、グワッシュで描かれた152×205cmの大作で、道化(クラウン)のマスクが画面いっぱいに描かれている。
道化やマスクという題材は、それまで多かった女性像から入れ替わるように、この頃から登場するようになる。道化やサーカスを題材にした作品が、この時期制作される油彩やカゼイン画の大半を占め、色彩も一見、明るさを増してはいくが、代わりに登場人物たちの表情の持つ意味は、サーカスという題材ゆえのメイクや仮面で、以前の女性たちの表情にも増して曖昧になり、見る者の感情や経験によって、左右された。

M

Mr.Aceミスターエース

1952年 | 油彩 | 116.9cm×66.1cm | 福武コレクション蔵
更新日:2016.04.28 執筆者:才士真司

Mr.Ace

国吉康雄最晩年の油彩画。故に最高傑作ともいわれる。国吉にとって仮面や仮面をつけた人物というモチーフはかなり重要なものなのだけれど、この作品で描かれた人物(道化師)は、その仮面を脱いでしまっている。国吉の作品で仮面を脱ぐという行為はこの作品以外には確認されていないし、他の画家との比較においても珍しいモチーフだといえる。このことが意味することは何なのでしょう。作品を見てみましょう。描かれているのは確かにサーカスの道化師で、テントの中なのだろうか。どうにも判然としない不思議な空間に佇んでいる。画面は透明感のある鮮やかな色彩に彩られ、幾層にも重ねられたこれらの色は、国吉自身の言葉を借りるなら、まさに「色に命を」与える作業の成果で、この不思議な色には、国吉が人生をかけて習得したあらゆる技法が集約されている。一方で素顔を隠すはずであり、商売道具でもある仮面を脱ぎ、素顔を晒しながらも、まるで仁王像のようなポーズを決める道化師。その口はまさに、すべての終わりを意味する「吽」の一文字のように結ばれている。そしてこの表情。皆さんにはどのように映りますか?笑みを浮かべている?哀しみに覆われている?この絵に対する印象は人によって様々。この絵の面白さは、エースの前に立つ人の気持ちを合わせ鏡のように写してしまうところでもある。それは、達磨大師の肖像のようにどこから見ても目が合う、その視線によるところも大きいと思う。
アメリカの国吉康雄研究家のトム・ウルフ氏は、エースという言葉を、「切り札」や、絶対的なヒーローという意味だけではなく、二面性のある、裏の顔を持つ人物をも指す言葉だとも紹介している。また晩年に国吉からミスターエースの意味を聞いたという国吉の教え子であるスティーブン・ドーフマン氏は「映画からインスピレーションを得た作品だ」と語る。その映画の主人公は、アメリカらしい男性像を演じることに疲れたという設定で、その映画のタイトルが「ミスターエース」。

執筆者について

才士 真司

才士 真司 
SAITO Shinji

岡山大学国吉康雄寄付講座准教授。2013年、直島で開催された「国吉康雄展~ベネッセアートサイト直島の原点」での映像制作、空間演出以降、アートイベント「国吉祭」を岡山で仕掛けるなど、国吉康雄関係の研究・顕彰プロジェクトを企画、プロデュースしている。

江原 久美子

江原 久美子 
EHARA Kumiko

1968年岡山生まれ。1996年より、「ベネッセアートサイト直島」の企画や運営、教育プログラムに携わる。また同時に「国吉康雄美術館」の運営にも携わる。2013年、ベネッセハウスミュージアムでの「国吉康雄展」を企画。現在は岡山大学国吉康雄寄付講座准教授。

伊藤 駿

伊藤 駿 
ITO Shun

1992年東京生まれ。2015年スミソニアンアートミュージアムで行われた国吉康雄回顧展ツアーをきっかけに、国吉康雄プロジェクトに参加。2016年広兼邸で開催した「国吉祭2016in吹屋」を企画。岡山大学国吉康雄寄付講座スタッフ。