おかやま風(ふう)

VOL.3 日本茶の歴史と吉備津神社

株式会社引両紋 青山雅史

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  • 2022.06.14

今回は、日本茶の歴史についてお話します。実は岡山県と「お茶の文化」は非常に深い関りがあります。歴史を知ることで、日常にあるお茶が、少しでも美味しくなれば幸いです。

栄西禅師生誕地。栄西が誕生したと伝わる旧邸の跡地に地元有志が碑を建立
栄西禅師生誕地。栄西が誕生したと伝わる旧邸の跡地に地元有志が碑を建立

お茶は中国が原産地といわれていて、日本でのお茶の歴史は、奈良から平安時代初期に中国から持ち込まれたことが始まりと考えられています。先進国であった唐(中国)の文化や学問・制度などを学んで自国へ取り込もうと、遣唐使を唐に派遣していました。

お茶が中国から伝来した時期について諸説ありますが、一般的には平安時代初期に伝来した説が有力視されています。安土桃山時代にまとめられた言い伝え集『日吉社神道秘密記』には、805年に最澄が唐よりお茶の種を持ち帰ったことが記録されています。唐でお茶が「薬」として服用されていたように、当時の日本でも滋養強壮・体調不良回復のために飲まれていましたが、お茶はとても貴重であったため、皇族や有力僧侶、貴族階級などの上流階級の人しか飲むことができず、とても一般の人々が飲めるものではありませんでした。上流階級の間で健康のために飲まれるようになっていたお茶は、一部にしか広まらず、遣唐使が廃止になったことで、日本に定着せずお茶の文化は廃れていきました。

この当時のお茶は、現在のものと形式が違い、団茶(だんちゃ)と呼ばれる、茶葉を蒸してすりつぶし固形状にして乾燥させたもので、飲むときは火であぶってから粉にして湯の中に入れて煮るものでした。

茶道の普及、奨励に努めた功績を讃える茶碗型の顕彰碑
茶道の普及、奨励に努めた功績を讃える茶碗型の顕彰碑

一度廃れてしまったお茶の文化ですが、1141年に岡山の吉備津神社の権祢冝(神社内での役職)の賀陽貞遠の子として誕生した栄西が、1191年に臨済宗開祖の修業先の宋(中国)からお茶の種を日本に持ち帰りました。このことがキッカケで、今日のお茶の文化ができたといっても過言ではありません。

栄西が修行していた宋の禅院では、お茶が盛んに飲まれており、栄西がお茶の効能について感銘を受け、日本へ持ち帰ったそうです。栄西は、お茶の効能や飲み方を解説した書物「喫茶養生記」を編纂ました。これは日本で初めてのお茶の専門書といわれており、栄西はこの書物を1214年に鎌倉幕府将軍の源実朝が二日酔いのときに献上したと鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」に記録されています。最初は禅寺を中心に広がり、次第に武士にも普及しました。当時は健康目的で飲まれることが多く、まだ嗜好品として飲むことは少なかったようです。

この当時のお茶は、碾茶(てんちゃ)や挽茶(ひきちゃ)と呼ばれるもので、茶葉を粉末状にし、湯に溶かして飲む、現在の抹茶のようなものでした。

摘み取りの最盛期を迎えた茶畑

江戸時代になると、お茶は幕府の儀礼に正式に用いられて、このころから庶民の間にも嗜好品としての茶の文化が広がります。1738年に宇治の農民だった永谷宗円(ながたに そうえん)が新たな製茶の方法を編み出しました。漢字では「茶」と書くように、それまでのお茶は「茶色の水色」でしたが、永谷宗円が考案した新たな製茶の方法により、鮮やかな「緑色の水色」のお茶になりました。この頃までのお茶の水色が「茶色」だったことは意外と知られていません。ただ、江戸時代でお茶が庶民に広まったといっても、まだまだ贅沢品という位置付けで、現在のように茶が日常的に飲まれるようになったのは、機械化により量産が可能になった大正から昭和前期の時代でした。江永谷宗円(ながたに そうえん)が編み出した新たな製茶の方法のお茶が、現代でいう煎茶(せんちゃ)になります。

これがざっくりとした日本茶の歴史です。今の日本茶の実質的な起源は、岡山の吉備津神社の権祢冝(神社内での役職)の賀陽貞遠の子として誕生した栄西が、鎌倉時代に宋時代の中国からお茶の種を持ち帰ったことによるわけです。次回は岡山がルーツの「茶祖」栄西禅師について詳しく説明をしていきたいと思っています。

お茶の普及の原点となった吉備津神社