おかやま風(ふう)

VOL.4 栄西がいたからこそ広まったお茶文化

株式会社引両紋 青山雅史

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  • 2022.07.25

岡山の日本茶の生産量は全国の0.3%。なかなか結び付きそうにないですが、実は岡山と日本茶の歴史には密接な関係があり、日本茶の文化は岡山がルーツと言ってもいいかもしれません。

青山雅史

日本茶の実質的な起源は、岡山の吉備津神社の権祢冝(神社内での役職)の賀陽貞遠の子として誕生した栄西が、鎌倉時代に宋時代の中国からお茶の種を持ち帰ったことが始まりといわれています。

栄西が宋(中国)に渡ることを決心したのは1161年21歳のころ、約7年余りに渡り着々とその準備を進めていました。初めて宋に渡ったのは仁安2年(1168)4月、栄西28歳のときでした。

栄西は宋から禅だけではなく、喫茶の習慣も持ち帰りました。さらに栄西はお茶の種子も持ち帰り、寺で栽培をおこない、やがてそのお茶は全国へ広がり、お茶の産地をあてる遊びや「茶会」が流行するなど、一般的なものとなっていきました。

栄西禅師生誕地。入り口には案内板がSONY DSC
ここへのお参りは欠かさない

実は、奈良時代には日本にお茶が伝わっていましたが、栄西がお茶を広める前は、日本でお茶を飲む習慣はありませんでした。平安初期の『日本後紀』には嵯峨天皇が梵釈寺でお茶を飲んだことが記されていますが、上流階級の一部の限られた人だけがときどき口にできる「珍味」であったため、普及しませんでした。

当時のお茶は、蒸した茶葉を細かく砕き、お湯を加えて飲む、今でいう抹茶に近いものでした。栄西が実朝にお茶と『喫茶養生記』を献上した様子は『吾妻鏡』にも記されています。(※吾妻鏡とは、鎌倉時代に書かれた日記風の歴史書。源氏の頼朝をはじめとする鎌倉六代将軍までのことがまとめてあります。)

宋にわたり、禅宗とともに茶礼を勉強した栄西。両者を共にひろめるべく「喫茶養生記」という医学書を書きあげます。栄西の著した「喫茶養生記」は日本における独立して書かれた最初の茶書です。またそれによってお茶の文化を広く一般に広めた功績から栄西は「茶祖」といわれることになります。

「喫茶養生記」は「養生記」とあるように、茶の作法ではなく、当時の中国で説かれていたお茶の医学的効能を中心に書かれた書です。その他には茶樹の栽培方法や、お茶の煎じ方などについても書かれています。その書は「茶なるものは、末代養生の仙薬、人倫延齢の妙術なり」というお茶の効能を説く一文から始まり、お茶の種類や作り方、お茶の効用などが記されているほか、桑にも着目。お茶や桑による病気の治療法を紹介しながら、健康管理の必要性を語っています。当時、病気の治療といえば、まだまだ祈祷(きとう)が主流でしたが、喫茶養生記は医療に一石を投じた格好になります。実用的な医学が始まるきっかけにもつながりました。

正面の少し白くなっている部分が人影にみえるいわれが……

鎌倉時代が終わり、南北朝時代がはじまると「闘茶」が流行。(※闘茶とは、お茶を飲み比べて産地を当てる競技です。)闘茶はやがて、形を変えて「茶寄合」と呼ばれるようになり、産地当て競争ではなくお茶と一緒に茶器を楽しむ茶会へ変化していき、これがいつしか、「茶の湯」と呼ばれる利休の茶道へとつながっていきます。

このように今の日本茶の文化は栄西がいなかったら、存在しなかったかもしれません。ですから岡山と日本茶の文化とは深い歴史があるのです。

現在は新型コロナウイルスの影響で中止されていますが、岡山後楽園で栄西の偉業を顕彰する大茶会が開催されています。昭和8年(1933年)に始まった行事で、県内6流派によるお茶席が園内各所で催されます。栄西が開山した臨済宗の建仁寺に仕える老大師が、栄西を祀る祭壇に茶を捧げます。

栄西の功績を讃える茶碗型の顕彰碑

また、2014年3月に吉備津神社から徒歩で5分程の栄西禅師生誕地とされる所に庭園が整備されました。彼の生誕の地に残されている石碑は栄西の業績をたたえて茶碗の形をなっています。是非、一度足を運んでみて下さい。

次回は知っているようで意外と知らない日本茶の種類や製造方法の違いなどをご説明させていただきます。

摘み取りの最盛期を迎えた茶畑
摘み取りの最盛期を迎えた茶畑