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財団と人

#9 山崎樹一郎さん | シネマニワ代表、映画監督、トマト農家
対談日:2016.6.20

自分が住んでる場所、そこで映画を
作るというのはすごく自然なことだと

映画館の無い真庭で1本でも多くの"見るべき映画"を上映したいと思いcine/maiwaを立ち上げて9年目。その間に仲間たちと真庭を舞台にした『紅葉』『ひかりのおと』『新しき民』と3本の自主映画を制作した山崎樹一郎さん。映画とトマト作りのこと、仲間たちのこと、これからのことを伺いました。(聞き手:山川隆之=2012年福武文化奨励賞

山川 トマトの収穫の時期ですよね。

山崎 もうちょっとですね、7月頭ぐらいからです。

山川 今はどんな時期ですか。

山崎 収穫前の管理をしていますが、梅雨なので管理が難しくてバタバタしています。

山川 トマト作りを始めて何年になりますか。

山崎 11年目。まだまだ新米です。

山川 トマトを作りながら映画を撮るという年間のサイクルは?

山崎 冬場に関しては、後片付けであったり、いろんな農業の作業もあったりするので、きっちり4月から11月がトマトで、12月から3月が映画でというような感じではなくて、重なり合っています。逆転する場合もあったりします。

映画とトマトづくり、
時間は取り合いっこになったりしている

山川 もっと映画の方に時間をかけたいとか、もっとこうしたいのにというジレンマみたいなものもありますか?

山崎 ジレンマは、ずっとあったのですが・・・。映画のことだけでは、生活はできないので、そういう映画監督も中には何人か数えるほどいますが、ほとんどは掛け持ちしながら生活していると思います。映画はやはり創造していくものなので、時間は取り合いになります。

山川 山崎さんがトマトを作りながら、映画を作っていることに対して、まわりはどのような感想持っていますか?

山崎 びっくりしてる人もいるかもしれないけど・・・。

山川 そんな意外でもない感じ?

山崎 映画作ることは京都時代から言ってましたし、農業やると聞いたから映画やめたと思ったという人もいたり、いろんな人がいろんな反応をしてると思います。

山川 真庭にIターンする前は、人生設計としてトマトを作りながら映画を作り続けていくという生活を描いていましたか。 

山崎 ないです。想像すらできないというか、かなり漠然としていました。農業を何も知らなかったので、今から考えると無謀だし、何か、子どもじみていたのかもしれません。
京都にいた頃は、やはり映画は作りたかったけど、監督作品は作れなくて・・・。いろんな社会の状況であったり、政治の状況であったりというのも見ながら、なんかここではないどこかというか…。
そのときに思っていたのは、経済的なことではなくて、生きていくための、生死の中で、死ぬか生きるかで生きていくこととして、農業を手に入れたいという、そういう意識がありました。それが中心になっていろいろ重なって、こっちに来たので、9割以上映画はあきらめるみたいなことだったのかもしれないです。

山川 映画のために農業を選択したというわけではなかった。

山崎 27歳の青年がこれまでの生活をほぼ捨てて、居を変えるということは、漠然としていますが、やめるというか、いったん止めるという合間でした。

山川 それは挫折感みたいなものも持っていました?

山崎 やりたかったけど、できなかったことでした。諦め切れなかったということかもしれないです。

山川 真庭は、山崎さんのお父さんが生まれたところで、拠り所としての場所はあったけれども、お盆に帰ったりとかの付き合いしかなかった土地。比較的すんなり土地になじんだり、周りの人たちは温かく山崎さんを迎え受け入れてくれましたか。

山崎 温かさも冷たさもなく、自然と入るというのは、技術だと思っています。僕は大学で人類学をやっていたので、フィールドワークで山村に取材に行ったり、映像を撮りに行ったりしていました。こっちの意見を主張しても、それは距離を置かれます。その土地の文化を持った人たちに対しての関わり方というのは、それを僕は大学では一番勉強したつもりで、だからそこはいけるかなと思っていました。 ただでさえ父親の生まれたところなので、ある程度は知っていてくれていたので、こんな若造でもできるんじゃないかなと思っていました。地域の人から言わすと、温かく迎え入れたと言うでしょうけど。

山川 自分が生きていく術を求めてトマト作りを始められた?

山崎 最初は農大に行きました。赤磐市の農業大学校を受験して、合格したんですが、面談のときに「ここは高校卒業した人が来るところなので、あなたは27歳だから、湯原はトマトの産地だから新規就農制度を活用して行きなさい」と言われて、飛び込んでみようかなという感じで始めました。僕は2年間赤磐市で生活するつもりだったのですが。

山川 実際にやってみて、どうでしたか。 

山崎 農家の「の」の字もやってないから、実際にやるのと本で勉強するのは、全く違いました。ひと月ぐらい実務研修というので農家に入って丁寧に教えてもらって、いろんな先輩の農家を勉強させてもらって、1年目から少量ですが出荷させてもらいました。

山川 トマト作っていけそうだという感触は1年目で芽生えました?

山崎 新規就農制度にのっちゃうと、ハウスを建てるわけです。借金してレンタルで建てて、5年ぐらいで償還していくので、やらざるを得ない状況です。

山川 ハウスを建てるのも自分で?

山崎 先輩が手伝ってくれました。

映画を見たいなと思ったけど、映画館が遠かった。

山川 農業からスタートして、どのあたりのタイミングから映画をやろうかなと思った?

山崎 シネマニワを作るのが始まりです。

山川 シネマニワを作るきっかけは?

山崎 1年半ぐらい農協に通うのとトマトを少し作るのが日常でした。夢中でトマトを覚えようとしていたので、全く文化的なもの、芸術的なものに触れていませんでした。触れようともしなかったし、DVDも見なかったし、小説も読まないし。そういう何にも触れていない生活だったことに、はたと気づいたんです。
それで、映画を見たいなと思ったけど、映画館が遠かった。

山川 一番近いのは岡山?

山崎 その頃はギリギリ津山の映画館がなくなった頃かな?じゃあちょっと自主上映をやりたいと、自主上映は京都時代からやっていたので。みんなで見る上映会みたいなのをしたら、友達もできるかもしれないかと思いましたし。

山川 友達もまだいなかった? 

山崎 農協の職員さんとか、部落の消防団の人とか、知り合いはできるんですが、友達ができない20代後半…。時々京都には行ってましたが。
文化の香りがする勝山あたりで上映会したいと思いました。勝山文化往来館ひしおの中にある「うえのだん」というカフェを訪れて、「上映会とかできないですかね」と聞いたら、加納一穂(※1)さんが相談に乗ってくれました。
彼女も映画が大好きだから、ぜひやろうということになりました。僕は「シネマニワ」というネーミングを何となく考えていて、シネマと真庭。そこにスラッシュ入れたらかっこいいんじゃないのと思って、こういうの考えているんだと伝えたら、いいんじゃないのということで「cine/maiwa」ができました。
さっそく上映会をしようということになって、その秋にうえのだんで小津安二郎のDVDを上映しました。それが始まりで定期的に上映会をしていくようになりました。

山川 観客は集まりましたか。

山崎 ほぼ加納さんの知り合いでしたが、何人か新しい人たちも来てくれました。少しずつ映画というものを使って、何かできないかな、できるんじゃないかと思い始めていました。

山川 山崎さんが映画に携わっていたことを周りの人は知っていましたか?

山崎 実は、農協の全国配布の広報誌で取り上げられて、新規就農で帰ってきた青年が、京都時代は映画の仕事をやっていて、今はトマトをやっているみたいな紹介記事が掲載されました。割とみんな読んでいて、僕が行ったら、ああその人だということになって、映画の話とか京都時代の話になったりしました。農協の広報誌は最初の名刺がわりになったんじゃないかなと。

山川 グッドタイミングでしたね。

山崎 あれがなかったらちょっと怪しいですよね。

山川 上映会は問題なく進みましたか。

山崎 松竹株式会社から電話かかってきました。
何月何日します、無料でやります、みたいなペラペラのフライヤーを勝山の何軒かのお店と、津山のレコード屋さんとか喫茶店とか数店、告知で置かせてもらったら、次の日ぐらいに電話がかかってきました。松竹の担当ですけど、こういうのをやってますかと聞かれて、無料でも無断でやるのは法に触れますので、使用料を入金にしてもらわないとできませんと言われました。いくらですかと聞いたら、1作品2万5千円。著作権上問題があるというのはわかっていましたが、それでもこんな山の中ですから、まさか松竹から電話が、かかってくるとは思いませんでした。
で、支払いましたね、2作品で5万円、すごい出費。

山川 それ以後は有料にしたのですか。

山崎 僕たちもちょっとあざとくなっていって、パブリックドメインといって、著作権切れの海外の作品が割とあるので、DVDの発売元には電話をかけて、許可を取って無料でできる映画を上映しました。『駅馬車』とか。
そのうち自主映画というのを見せたくなって、僕が京都時代から付き合いのある映画監督の作品を上映しました。それが自主映画を作ることにつながったので、やってよかったです。

『紅葉』をきっかけに少しずつ人が集まって、本気で『ひかりのおと』を作ろうと…

山川 第1作の『紅葉』ですね。監督として作ったのはこれが初めてですか?

山崎 学生時代に作ったのはあるので、真庭に来て1作目。

山川 周囲の変化はどうでしたか。

山崎 上映会をしたら山陽新聞が取り上げてくれたので、たくさんのお客さんが勝山に来てくれましたし、大阪や岡山の映画祭で上映もできました。『紅葉』をきっかけに、人がちょっとずつ集まっていって、本気で『ひかりのおと』を作ろうと思って動き出しました。

山川 『ひかりのおと』の企画はどのように進んでいきましたか。

山崎 作品の内容はもちろん僕が決めていきますが、何百万かけて作るわけですから、『紅葉』までの映画と比べたら規模が全然違っていました。それができたのは、引き続き加納も一緒にやってましたが、桑原(※2)とか黒川(※3)とか、あと岡本隆(※4)が代表をしていた岡山映画祭とも仲間になっていったので、できるんじゃないかなと思いました。

山川 人とので出会いがあったわけですね。

山崎 企画書とかいろいろなものを、加納、桑原、黒川、岡本とかにメールで送ると、これはだめでしょ、と桑原は言ってくる。こうでもない、こうでもないと書き換えて、プロットですけど。それをやってたら、いいですねという感じになってきて、じゃあ年末年始はみんな空いてるから撮影しましょうということになりました。

山川 『紅葉』との違いは?

山崎 撮影、照明、録音は、スタッフはプロの現場でやっていた桑原の同世代の仲間が来たので、全然違いました。

山川 その時の山崎さんの気持ちは?

山崎 失敗できないと思いました。でも3年間ぐらい生活してきて、真庭の若者を映画にするという自信というのはありました。だから制作に夢中で、トマトは手が回らなくなってしまいました。

山川 バランスとしては、かなり映画の方に突っ込んだ時期ですか.

山崎 苦しかったです。『ひかりのおと』を作っている時とできた時からの巡回上映会。

山川 『ひかりのおと』は1回作ったのを作り直したとお聞きしたのですが。

山崎 撮影して編集して完成したんですが、納得いかないというか、これじゃちょっと失敗作で見せれないよねということを桑原と相談しました。もう1回やりたいというか、しがみついたというか、その翌年の年末年始にもう1回同じスタッフ、キャストが集まって、10日ぐらいかけてほぼ半分撮り直しました。シナリオも書き換えて、2年目の撮影が終わって、編集していたときに3.11東日本大震災が起きました。またそこでぐちゃぐちゃになって、どうするんだということもありました。

山川 そういう意味では『ひかりのおと』は山崎さんの中の一つの大きな転換のときに、福武教育文化振興財団の文化奨励賞を受賞ということでしょうか。

山崎 シネマニワが評価されたことが非常にうれしかったです。

山川 なぜですか。

山崎 すごく素直に喜べました。映画が評価されるのは嬉しいけど、個人が評価されることに関しては、照れくさいことで、覚めてるところがあります。映画は個人で作るもんじゃないからというので、ちょっと違うんじゃないかなと思うんけど、シネマニワの受賞はうれしかった。仲間でもらったということかもしれないです。

劇場で公開するよりも、僕たちが行って
土地の人と出会う方が価値がある

山川 『ひかりのおと』は岡山県内で50会場、100スクリーンというのを目指して巡回上映がスタートして、ほんとにきめ細かく地元で見てもらいましたが、山崎さんの発想ですか。

山崎 この映画をどう見せていくかということを桑原といろいろ相談していました。大阪とか東京で劇場公開するというのが当たり前の方法。映画を作ったらまず東京の劇場でかけさせてもらって、評価をされれば地方に下りてきます。そこから自主上映が始まるというのが、その頃よくあったスタイル。でも、それにはあらがいたかった。
京都のときも作ったものをみんなで見たり、近くの人に来てもらって、居酒屋とかバーで上映するようなスタイルが楽しかった。
3.11があって、いざというときのために、誰かが手をあげれば全体が共振するような、人と人がつながっているネットワークのようなものが、巡回映画をすることによって生まれると思いました。劇場でただ公開して映画だけ見せるよりも、僕たちが行って、土地の人と出会って行く方が、価値があるんじゃないかという方針で、進めていきました。

山川 大変ですよね。

山崎 大変でした。やるならとことんやろうと目標を50会場にしました。岡山映画祭の小川さん(※5)たちに相談して、こういう場所に映画の上映やっている人いるよと情報をいただいたり、人づてでたぐっていきました。チラシを持って行って打ち合わせして、会場のセッティングして、集客もしないといけないし。本当大変でした。

山川 岡山市内では「『ひかりのおと』、それ何?」という感じではなかったですか。

山崎 ラッキーなのか東京国際映画祭への出品が決まっていて、もともと応援してくれていた山陽新聞にどんと掲載されて、知ってくれている人もいたし、地元の人も協力してくれました。ポッと出の『ひかりのおと』を持って行っても多分そこまではならなかったかもしれないです。真庭と岡山で協力者向けの試写会を何度かやったので、それで気にいってくれた人が自分のところでも上映したいと手を上げてくれて、どんどん広がっていきました。

山川 最終的に岡山県内で何カ所ぐらいですか。

山崎 巡回上映期間中に50カ所以上。追加で20ぐらいやっているので、70ヶ所ぐらいです。

山川 その映画を見てくれる人が目の前にいるのは、どんな感じですか。

山崎 ライブです。もちろん真庭で最初にやったら400人とか来てくれます。協力的な人がいるところは100人とか来てくれたりしますが、一桁のところも、もちろんあありました。一番少ないのは2人という会場もあって、それは会議ですよね。僕が上映後に出ていってお客さん2人しかいなかったりして、思っていたのと違ったと言われたりすると、さーっていう空気になりました。お客さんが少ないとお客さんが強くなるんですよね。毎回行ってて思いました。お客さんが多いと、壇上の方が強い。それは真理です。

山川 『ひかりのおと』を撮り終えて、上映会をしながら、『新しき民』の構想を練っていました?

山崎 決めたのは、巡回上映中です。

山川 次の作品はそういう一揆、『新しき民』を作ろうと思ったのは、巡回上映のやり方も含めて『ひかりのおと』で得た自信や確信からですか?

山崎 そうですね。一揆に関しては、3.11以後から芽生えていたんですが、作らなくちゃいけないと思いました。

山川 『新しき民』は、時代劇ということもあったし、かかわる人間の多さからもずいぶんスケールが大きいくなりますよね。

山崎 大変でしたね、これもまた。よくやったなと思います。

山川 監督としての変化は、ありましたか?

山崎 『紅葉』のときからやることは変わっていませんが、ただ予算は増えていくので、本当に大変だったのはプロデューサーだと思います。僕は企画とシナリオと演出をするので、そこが変わっていくようでは何か違うと思っているんですけど、桑原とか黒川は回を重ねるごとに大変になっていったんだと思います。

山川 『新しき民』の場合、撮影場所も何カ所も…。

山崎 関係する人の数が尋常じゃないし、それだけ人がかかわっていました。

山川 採算ベースにはのった?

山崎 採算はのってないし、回収はできてないです。『新しき民』は時間がかかるとは思っています。

山川 海外の反応はどうでしたか?

山崎 海外の方がいいですね。アメリカがよかったです。アメリカの人たちは理解してくれてました。

山川 アメリカの人たちが、『新しき民』を見て、共感してくれるというのは?

山崎 かなり日本に対して意識が高い人が見にきてくれたんでしょうけど、日本の現在の状況に危惧しているところがあって、この映画はもちろんそれに向けたメッセージであるというのを日本の人たちよりもダイレクトに、いろいろ聞いてきてくれるわけです。
それと、日本映画の今までの時代劇というのを見てきた人が、この作品を評価してくれたというか、新しいことをしているんじゃないかと。気に入ってもらったような気がします。

山川 日本よりも、もっと深いところを感じ取っていると。

山崎 海外でするとそういうのがありますね。楽しさというか、外国人が作ったものとして見るわけですから、そういう意識がある人が見に来るのだろうと思います。

あほでないとできないことを
けっこうやっている。

山川 岡山という土地と映画作りで思っていることはありますか?

山崎 いろんな場所で、いろんなものが生まれるのが正常に好ましいと思っています。映画に限らず、住んでいる人たちが思っていることや考えていることを表現することは、岡山だけじゃなくて、東京ではなくて、地方地域でやる方が重要だと僕は思っています。商業的なことは置いといてでも、いろんな場所で声が上がっている方が、健全な気がします。いろんな表現者がいる方が健全だと思います。

山川 映画は地方にいる素人が手を出すものじゃなくて、東京の人たちが作って、僕らはロケ先を提供するというような感覚でしか映画とのかかわりはなかった。

山崎 ほかのジャンルに比べて、映画は特にそうだと思います。大手の会社しか作れない時代が長く続いたんですが、脈々と低予算で優れた作品を作ってきた歴史もあって、できるとは思っていました。東京の制作会社しかできない映画というのではなくて、経済的な差やクオリティの差はあったりするかもしれないが、独立してするという思考はいろんなことにつながると思います。それが欠けているというか、欠けていたのかもしれないです。

山川 そういう意味で僕は山崎さんが、あきらめずにやればできるんだという勇気を与えてくれた存在みたいに思っています。

山崎 たぶん、あほなんですよね。あほでないとできないことをけっこうやっています。こっちに来たのもあほじゃないとできないと思ったりもするし、映画を山の中で作ろうと無謀なこともあほじゃないとできないですし。時代劇なんかまさにそうで、いろんな人に言われました。
常々考えていることをフトした拍子に、何かを投げ捨ててやるというのを、繰り返しているように思います。カンというか、常識的じゃないのかもしれないです。

山川 もう一つ山崎さんの場合は、生活していくことと、映画というものと、きちっと両方見てやりきっている、そのスタンスを守っている。

山崎 ギリギリですけどね。

山川 後に続く若い人が、じゃあ僕も真庭に来て、農家しながら映画作りたいですと言っても、なかなかこうやったらできるよというものでもないでしょう。

山崎 すすめられないです。

山川 地域で映画を作っていく上で一番の制約を教えてください。

山崎 あまりないんじゃないですかね。東京よりも作りやすいと思っているので。一つの場所で撮影するのに、東京はものすごい許可をとらないといけなし、人の肖像権とか訴訟とかの問題とかもあるかもしれないし。こっちは切り取りやすいですね。自分が住んでる場所は日々見てるわけですから、そこで作るというのはすごく自然なことです。たとえば東京の制作会社が岡山に来て、湯原に来て、撮りましたというのと、僕が湯原で作るのとは、明らかに違います。そのやりやすさというか、当たり前のアドバンテージ。

山川 それはここでないと作れないものもあるし、山崎監督だからこれは撮れるということにつながっていきますか。

山崎 さっきの人類学の話につながるんですが、フィールドワークであったり、入り込まないと、その土地の人たちの視点はわからないし、茶菓子だけ持って話を聞かせてくださいと言っても、ほんとうの裏側までわからないです。生活しながら寄り添うというか、滑り込んで、そこからの目線で作るというのは、一緒というか、同じようなことだと思います。それをやっています。

山川 黒沢清監督の「日常の中に映画になることはないかということを常に見ている」という言葉がすごく響いたと書いていましたね。

山崎 あれはいまだに信じているところがあります。

山川 さっきの話に通じるような、ここで日々生活していることの中に映画にできる題材でありシーンがあると。

山崎 だと思います。日々の感情であったり、社会の動きであったり、地域の動きであったりのことでしかないはずです。ゼロから何か作ったり、考えて作ることはまずないでしょうから、そこに視点を置いとくというのは、こういう生活というのはまんざらあってなくはないという、思ってます。

山川 最後の質問ですけど、次の作品のことを教えてください。

山崎 考えてはいますが、まだ秘密です。

※1 ひのき草木染織家 ※2・3 「新しき民」プロデューサー ※4 岡山映画祭実行委員会元代表 ※5 岡山映画祭実行委員会 代表

Profile

山崎 樹一郎

山崎樹一郎 
YAMASAKI Juichirou

1978年大阪出身。映画監督。2006年3月、京都から岡山県真庭市に移住し農業を続ける。
2007年、映画上映・製作を行うcine/maniwa(シネマニワ)を発足。
監督作品として『紅葉』(2008年製作)、『ひかりのおと』(2011年)、『つづきのヴォイスー山中一揆から現在ー』(2013年)
『新しき民』(2014年)がある。それらの作品は岡山を始め、ロッテルダム、フランクフルト、ニューヨーク、北京、ダブリンなど国内外のさまざまな場所で上映されている。
『ひかりのおと』で第12回ドイツ・ニッポンコネクションNippon Vision Award受賞。またcine/maniwaとして第13回岡山芸術文化賞グランプリ、福武文化奨励賞を受賞。
『新しき民』では第30回高崎映画祭にて新進監督グランプリ、第17回岡山芸術文化賞グランプリを受賞。

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