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財団と人

#2(後編) 江原久美子さん | 福武コレクション研究員
対談日:2015.05.19

後編 「国吉康雄と現代アート」

前編 「改めて、国吉康雄は天才だ」と感じた美術展

社内異動希望を出して直島に
現代アートを担当

4月3日からアメリカ・ワシントンD.C.のスミソニアン・アメリカン・アートミュージアム(以下、スミソニアン美術館)で開催されている国吉康雄の回顧展「The Artistic Journey of Yasuo Kuniyoshi」。
同展に最も多く作品を貸し出した福武コレクションの研究員である江原久美子さん。後編では、国吉と現代アートについてお話していただきました。(聞き手:財団/和田広子)

―― 国吉との出会いは。

江原 大学を卒業して当時の福武書店に就職したんです。当時、1990年代の初めごろですが、企業は、お金儲けばかりするのではなく、社会の中で文化的な活動もしなくてはならない、文化に対するパトロン的な役割を果たさなくてはならないという機運が高まっていました。自分もそういうことをやってみたいなと思って、うまいことバブルの時代に入社したんですけど、当然、新人がそういう部署にすぐに配属されるわけではなくて、教材を作る部署に行ったりして5年間東京にいて、社内異動希望を出して直島に異動になったんです。

―― 直島ですか。

江原 今でいう「ベネッセアートサイト直島」を経営する部署です。当時のベネッセコーポレーションは、直島では現代アートをやって、岡山では国吉康雄美術館を運営していて、私がいた部署がその両方を担当していました。そういう状態が1990年ごろから十何年か続いていたんです。
私は主に直島の現代アートの担当だったんですが、時々国吉のほうにかかわるという感じだったんですね。岡山県立美術館に寄託するということになったときには、その事務を私が全部やりまして、リストを作って県美の人とやり取りをして、運ぶ段取りをしてお預けするというのをしましたね。

―― そのときは、国吉に対してどんな印象を持ちましたか。

江原 直島では、今、目の前にいるアーティストが、作品を作っていくんです。時間はかかりますが、直島で作品が生まれていく。まずアーティストに会って「直島はこういう場所です」というのを見てもらって、どういう作品を作るのがよいかという話をして、プランが決まってくる。大体は絵ではなくて、大がかりな仕掛けみたいな作品が多いんです。鉄を買ってくるとか、アート作品を作るために建設会社の人に工事を頼むとかいうようなことが多いんですけれど、そんなふうにして作っていくという現場をずっと見ていたので、国吉は第一に本人がもう亡くなっている、絵であるということで、ちょっと距離感がありましたね。もちろん素晴らしい世界だとは思っていましたけれど、かたちも時代もすごく違うものというような印象はありました。

―― 現代アートとは接し方が違った。

江原 直島の現代アートの美術館で仕事をしていたときに、ギャラリーツアーとかしますよね。そのときに、現代アートだからわかりにくい、という印象が強いんです。でも何とかして知りたいと思って来る人たちに対してすごくやってしまいがちなのが、「つくった本人はこう言っていました」と言うことなんです。特に新聞記者の方によく聞かれるのは、「この作品は、何を伝えようとしてるんですか」って。

―― コンセプトは何ですかと。

江原 と言われて、「こうですよ」と言えるものじゃないわけですよ。逆に絶対言ってはいけないと思っていました。アーティスト本人と話をしているときに、面白いことを言うなという瞬間はあるんですけれども、本人はやっぱり「作品を見てほしい。自分の言いたいことはここに込めてあるから」と必ず言うわけで、それで何とかできないかなと、現代アートの美術館の担当だったときにはずっと思っていたんですね。
つまり、作品はここにありますと。それを見る人は目の前で見ているにもかかわらず、「本人はこう言っていましたよ。こういうことを分かってほしいと言っていましたよ」と言ってしまうと、見ている人と作品の関係がなくなるというか、聞いただけで分かってしまうという感じになるので、「いや、よく見ましょうよ」というふうにしようとしていたんですね。「本人がどういう人かというのは、もういいじゃないですか。だれが描いたかとか、だれが作ったかとか、男か女かとか、年寄りか若いかとか、別にいいじゃないですか。とにかくこの作品を見ましょう」というふうに、私はずっとやっていたんです。

国吉にかかわるようになって
アーティスト本人について語るようになった

―― 今は「国吉ってこういう人だ」とすごく語っていますよね。

江原 そうなんです。すごく語っているんですよ。だから、私はそれがすごい悩みだったんですね。国吉にかかわるようになって、それまでのやり方だと、「本人のことはいいじゃないですか。絵を見てこの不思議さをみんなで語ろう」ということを是非したかったんですけれど、国吉の場合、本人のことを分かったほうがより面白いというふうに切り替えたんですね。無理というか、もったいない。本人のことを全然知らずに絵だけ見て楽しもうというよりも、この人はこういう人で、こういうことを言っていたんですよということがちょっとでも分かったほうが、より作品が面白くなるタイプのアーティストだなと思って、切り替えたことがありますね。
対話型鑑賞でいうと特にそうなんですけれども、対話型鑑賞って、作品と見る人の関係だけが一番大事で、時々ちょっとヒントを言ってもいいけれども、この人はこういう人でこういうことを言ってましたというのを、言わないことにしてるじゃないですか。森弥生さんと話をしていても、「そこがいつも悩みです」と言われていたんですけど、国吉についてはやっぱり時代と人を言ったほうがいいなと、すごく語ることになってしまいました。

―― 国吉も当時は現代アートだったと思うんですけど、当時生きている方はその背景も知っているし、その時代に生きているから、その絵だけを見て感じたらよかったのかもしれないですよね。

江原 そうですね。今私が現代アートの作品について「本人はいいから絵を見ましょう」と言っているのと同じように、当時の人も、「絵そのものが面白いよね」と言っていたかもしれないですね。

―― 背景も全然違うしね。

江原 当時、日本人がアメリカで生活して画家として暮らしていたということに、今の私たちにとっての意味ができているのかもしれないですよね。この人がアメリカ生まれのアメリカ人で、アートの文脈に沿った画家だったら、別にそんなことをあまり気にしなくてもよかったかもしれないですけれど、人生もセットで見たほうが、より意味があると思いますね。それは現代アートをやっていたときと違うところです。

―― 距離は縮まりましたか。

江原 そうですね。でも本人と会えないというか、作品とか文字を読んでしか出会えない。たまに、録音を聞いたりするチャンスもあったりするんですけど。

もし国吉本人にいま会えたら
どんな価値観を持っているのか知りたい

―― 今、本人に会ったら何が聞きたいですか。

江原 聞き方は難しいですけど、どういう価値観を持った人なのかなということを知りたいと思いますね。何を面白がっているのか、何に興味を持っているのかというのを聞いてみたいなと思います。 すごく基本的な質問ですけど……。国吉には、絵を描いている以外の姿があったんじゃないかと思います。生活の中ではどういう人だったのかなということに興味があります。
現代アートのアーティストって、ものすごくいろんな人がいるんですよね。絵を描いてなかったら犯罪者だったんじゃないかというような人もいますし、手を動かしてないとこの人は生きていけないのかなという人もいますし、割とエスタブリッシュされて、美術業界で生きていくには次はこうやったらいいと、戦略的に動ける人もいたり。もちろんそれだけではだめで、才能は絶対に必要なんですけれど。本当にいろんな人がいるんですよね。みんな当然、アートに命をかけていますけれど、ある一定の「絵描きさん」みたいなイメージがあるわけじゃなくて、本当に、普段、会社員生活をやっているよりももっといろんな人がいるというのがアートの世界なんです。そういう中において、もし今国吉が生きていたらどんな人だったのかなというのは思います。でもきっと、何かすごく理想を持っていた人なんだろうなとは思いますね。

―― アート・スチューデンツ・リーグにも理想を持って入った。

江原 まず学生として入ったときに、それまでいくつも美術学校を転々として、ほかの学校は、やっぱり合わないと思っていた中で、リーグは肌にあったみたいで、何年間が過ごして、友達もできたし奥さんも見つけています。リーグをやめて、画家になったあとにまた先生になって、亡くなる直前まで先生を続けていたので、一つの大きな生きがいというか、欠かせないものだったと思います。

―― 教えるということが。

江原 アートを志す人たちに教えるということが、国吉にとっても必要だったと思います。でも、平和な時代の揺るぎない地位の人ではなかったので、やっぱり言ってみればフリーの画家であるよりも、学校の先生であるという地位が必要だったのだろうなとも思います。そういうふうに、本人の意思だけでは生きていけなかったし、こうせざるを得ないとか、こうすることが何かの手段になるというようなことが、すごく複雑に絡んでいると思います。

―― 一つひとつ紐解いていくんですね。

江原 そうなんですよ。何十年前のアメリカというものをまず知らないといけないですよね。それがまず膨大な大きな世界であるわけですし、そこで日本人が暮らしたというのがどういうことなのかというところからして。この間アメリカに行って、なるほどと思ったところもあったんですけれど、やっぱりそういう経験をすごく積んでいかないと、簡単には言えないというところはあるんです。だから今は、結構自分に義務を課して一生懸命岩盤を削っていくというような感じで、「わあ、面白い」というよりも、頑張らないといけないという感じはあります。
でも何が動機かといいますと、やっぱり勇気をもらえるというか。自分が今生きているのは平和な時代で、岡山県で生まれて岡山県で暮らしているから、別にそんなに危険はないわけですけれど。

―― 危機感はないですよね。

「国吉さんもあんなに頑張ったんだし、
私も頑張らなきゃ」と

江原 ないですよね。普通に暮らしていれば、このまま年をとっていけるはずですけれども、でもやっぱり、どうやって生きていったらいいのかな、子どもをどう育てたらいいかな、これからの時代はどうなっていくのかなとか思うときに、「いや、でも国吉もあんなに頑張っていたし」と思って。決して流されていたわけじゃなくて、自分で切り開いていったわけですね。やらなければやらなくて済んだことを、あえて自分でどんどんやっていった人なので、やっぱり自分も頑張ろうという勇気というか元気というか、頑張らなきゃなと思うんですね。国吉に関わらなかったら、そういうふうに思わなかったと思います。それは実感しますね。
福武總一郎名誉顧問も、経営をやっていく上で国吉にすごく触発されたというようなことを言っているわけですけれども、その気持ちはせんえつながら分かるなと。絵描きで研究の対象というよりも、もっと「国吉さんもあんなに頑張ったんだし、私も頑張らなきゃ」と思うというつながりは感じますね。ほかの方はどうか分からないですけれども、それは、人物を研究する研究者の人はそうなのかもしれないですね。学問の対象という知的好奇心だけではないところが、私の場合はあるなとは思いました。

―― 人として興味が。

江原 本当に会ったら、付き合いやすい人だったのか、付き合えていたのか分からないなと思って、ちょっと怖い気はしますね。もしかしたら、取っつきにくい人だったのかもしれないなとか。資料を読むと、学生に慕われていたとか、社会活動に関わっていたときもすごく人格的に信頼されていて、誠実で付き合いやすい人だったと友達たちが言っていたりするんです。だからきっと会ったら、「ああ、いい人だな」と思えるかもしれないんですけど……。でも、こういう絵を描く人だよ、とは思うんですよ。「なんだこりゃ」という絵を。もし付き合いやすい人だったとしたら、すごく内面を隠していたんじゃないかなとか、それが時々出てくるようなことがあったら、奥さんはすごく大変だったんじゃないかと思って。

―― 私から言わせたら、すべて「なんだこりゃ」みたいな作品なんですけど。

江原 本当にそうなんですよね。すべて「なんだこりゃ」なんですよね。本当にパワーがすごいんですよね。だから美術史的に、画家としてこういうものを描きたいと思って、他の人にこういう影響を与えましたというだけじゃないんですよね。もっと「人間って何」ということを考えさせられる。

江原 もう一つ私が興味があるのは、当時のアメリカ人が何で国吉を評価したのかを知りたいと思って。そのあと何十年かは忘れられるというか、アメリカの美術史ではほかの流れができてしまうんですけれど。でも国吉が生きていた1920年代から40年代くらいというのは、アメリカ人が国吉を認めていて、美術館が買ったり個人が買ったり、ヴェネツィア・ビエンナーレの代表に出したりしているわけなので、何を面白いと思ったのかなというのはぜひ知りたいと思っていますね。
よく言われるのが、アメリカは若い国なので、オリジナルのアートを一生懸命作ろうとしていた。それまでずっとヨーロッパのまねをしていたんだけれども、国の力が付いてきて、オリジナルのアートを作ろう、アメリカンアートって何だということがすごく言われていて、国吉はヨーロッパではない、本当にオリジナルだよねという評価はあったみたいなんです。けれど、そういう意識を持っていない人が見ても面白いと思ったとすると、例えば一般のコレクターの人が、「私これ好き」って思ったとしたら、何でかなと思うんですよね。さっきからずっと言っているように、「なんだこりゃ」というような、ここに何かすごい世界があるということかもしれないし。

―― 自宅には飾りたくないです。(笑)

江原 でも結構飾っていたみたいですよ。飾りやすいように、果物の絵とかリトグラフを描いていたらしいですけど。私が思うのは、何か物語性というか。例えば、皆さん小説を読むじゃないですか。明らかに虚構の世界というかフィクションの世界で、それを学んだからといって知識が高まるとかじゃなくて、面白いから読んでいるわけですね。この人一体どうなっちゃうのかなとか、こういうときにこの人とこれからどうなっちゃうのとか、物語を読むことを、人々の心が必要としているのだとすると、国吉の作品ってそんな感じだったんじゃないかなと。
当時のアメリカの人にとって、お話、物語というものが必要だったんじゃないかなと思っています。村上春樹とか河合隼雄さんが、物語の力というふうによく言っていて、村上春樹の小説って、結構とっぴというか現実にはあり得ない設定じゃないですか。だけど、すごくたくさんの人がそれを必要としているわけですよね。国吉の時代に国吉の作品を見て、アメリカ人たちがそれと同じようなことを必要としたんだろうなというふうに、私は妄想としては思います。こうだったんじゃないかなと想像して、ああやっぱりというような、イマジネーションがかなり必要ですね。

―― 妄想が。

江原 妄想が必要です。本当に

―― 江原さんは今、妄想中。

江原 うん、頑張っています。

国吉シンポジウム -国吉康雄スミソニアン展の視察報告と今後の可能性(仮)

日時: 2015年10月1日(木) 15:00-
会場: Junko Fukutake Hall 岡山大学鹿田キャンパス内

About KUNIYOSHI

国吉康雄
Photo by Adrian Siegel
国吉康雄自画像
国吉康雄「自画像」1918 年 油彩・キャンバス

国吉康雄 KUNIYOSHI Yasuo (1889-1953)

日本に生まれ、20世紀前半のアメリカで活躍した画家。
出身は岡山(岡山市北区出石町)。1906年、17歳で移民として単身アメリカに渡った後、労働生活の中で絵の才能を認められ、画家を志す。2度のヨーロッパ滞在、1度の帰郷のほかはニューヨークに拠点を置き、女性像、静物、仮面や道化などを暗喩に満ちた独自の画風で描き、評価を得た。1929年、ニューヨーク近代美術館での「19人の現存アメリカ人画家」展の出展作家として、1952年にはヴェネチア・ビエンナーレのアメリカ代表として選ばれるなど、戦前、戦後をとおしてアメリカ人画家として成功を収めた。

Profile

江原 久美子

江原 久美子 
EHARA Kumiko

1968年生まれ。岡山県出身。大学卒業後、福武書店(現ベネッセコーポレーション)に入社。教材編集などを経て1996年から同社の直島でのアートプロジェクトに参画。美術館運営、家プロジェクト製作や福武財団設立などに関わる。2007年退社。2011年から福武財団顧問、福武コレクションの国吉康雄作品・資料の研究、管理に携わる。2013年「ベネッセアートサイト直島の原点—国吉康雄展」ベネッセハウスミュージアム(ベネッセホールディングス主催)を企画。