助成先を訪ね歩く(取材日:2023年8月16日)

玉野を文化で潤う芸術のまちへ

玉野みなと芸術フェスタ実行委員会 実行委員長 斉藤章夫

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  • 2023.09.26

助成を受けた団体が助成金をどのように活用してきたのか、またその活動が地域にどのような影響を与えているのかを取材しました。今回は、玉野市で活動する「玉野みなと芸術フェスタ実行委員会」実行委員長の斉藤章夫(さいとう あきお)さんにお話を伺ってきました。(取材・文/小溝朱里)

玉野市

玉野市は岡山県の南端に位置し、瀬戸内海や王子が岳など自然に恵まれています。かつては塩田が広がっており、塩づくりが盛んだったほか、造船業や製煉業などで栄えてきました。

1910年〜1988年には、宇野港から高松港までを結ぶ「宇高連絡船」を運航していました。四国への玄関口や物流拠点として、多くの人が行き交いながらまちが発展していきました。

2006年には宇野港に大型客船バースが完成し、世界の大型客船が宇野港に寄港するようになりました。瀬戸内海に浮かぶ直島・豊島・小豆島行きのフェリーや高速船の運航も便利になりました。国内外問わず観光客が多く訪れるようになっています。2010年からは瀬戸内国際芸術祭の会場にもなり、アートのまちとしても知られるようになりました。

玉野みなと芸術フェスタ実行委員会

玉野みなと芸術フェスタ実行委員会(以下、TAMAFES実行委員会)は、歴史と文化を融合した活動や社会的に価値ある活動を展開し、質の高いアートを追求しつつ、市民とともに楽しめるアートイベントの開催を通して、玉野を楽しい魅力あるまち、文化的側面から地域に活力を生むまちにすることを目的に、2003年から活動しています。

1年目の2003年は、環境芸術・彫刻家の八木マリヨ(やぎ まりよ)さんを迎え、全国から集めたTシャツ10,000枚を素材に、巨大縄柱モニュメントを制作しました。縄アートのフィナーレは、人々の願いを天に届ける炎のアートセレモニーでした。

その後も様々なアーティストと協働し、アートを通して玉野市の歴史や文化を調査したり、調査結果を展示や舞台で紹介したりしながら今日に至っています。現在は、TAMAFES実行委員会に5つの団体(玉野しおさい狂言会、明神鼻の小屋実行委員会、こども芸術アプローチ実行委員会、リボンの会、タマノクルーズ実行委員会)が所属し、各団体とともにイベントを開催したり、互いに支え合ったりしながら活動を継続しています。

「こんなことやりたい」から派生して所属団体が誕生

斉藤章夫さん

―TAMAFES実行委員会が発足した経緯を教えてください。

斉藤(敬称略):2003年にNPO法人スマイルネット玉情協(以下、SNTJK)という団体ができて、その団体の最初の事業としてTAMAFESに取り組むことになりました。SNTJKは、玉野市のIT企業の集まりだった玉野市情報処理産業協会(以下、TJK)をNPO法人化した団体です。私は三井造船から三造ビジネスクリエイティブ(現在、株式会社NHファシリティーズに所属)に出向しその一員として経営に当たり、TJKにも入会しました。

できたばかりのSNTJKの営業活動で玉野市企画部企画課に行った時のことです。2006年に大型客船用バースが竣工する宇野港を全国に発信するため、内閣官房都市再生本部による「全国都市再生モデル調査」に、玉野市が手を挙げているのを知りました。当時の市長はアートに関心があり、直島に地中美術館が建設されるなどの動きを見て、宇野港をアートで盛り上げたいと考えていたそうです。

難しい事業に難色を示す人がほとんどだったなか、ただ一人私が「現代アート、面白そう」と発言しました。その後SNTJKメンバーを中心に実行委員を担うことになり、「巨大縄アート」のイベントを開催し、TAMAFES実行委員会を正式に立ち上げました。

巨大縄アートのフィナーレ「炎のアートセレモニー」(写真提供:玉野みなと芸術フェスタ実行委員会)

―アートにはもともと関心が?

斉藤:いえ、そうでもなくて。「面白そう」という直感と「玉野のためなら」という思いだけで始めた活動でした。始めは私自身サラリーマンでしたし、アートに関心が強かったわけではなかったので、本当に往生しました。

2003年はコンサルティングが企画したイベントだったからその指示で動けばよかったけど、2004年からは自分たちで企画するようになったんです。倉敷芸術科学大学や岡山県立大学などに行き、先生や学生さん、アーティストさんにたくさん話を聞いて、どんなことをやったら玉野が盛り上がりそうかを考えました。

―20年活動を続けてきたなかで、特に印象に残っていることはありますか?

斉藤:二つ思い浮かびますね。

一つは2005年、国や県・市からの補助金がなくなり、完全に自主事業として行ったことです。何とか活動を継続する方法はないかと頭を悩ませながら、「WAVE港・海辺活動振興助成」を受けたり、玉野市の団体や個人からの協賛金を募ったりして100万円を集めました。一番と言っていいほどの存続の危機でしたが、活動を始めた2003年からの人との繋がりのおかげで、どうにか継続できました。

もう一つは2007年に、イベント開催場所を宇野港エリアから山田地区に移して、歴史と文化を掘り起こすなかにアートを見つめたことです。美術家の清水直人(しみず なおと)氏がTAMAFESをきっかけに玉野に住み始めてくれ、彼と一緒に市内の “地の唄”を調査し、山田地区で歌い継がれていた「浜子唄」を発掘しました。

山田地区には、塩田労働者が歌っていた「浜子唄」を歌い続けている方たちがいたんです。伴奏は三味線でね。それを五線譜に落として山田小学校の児童に教えていました。その年のイベントに「浜子唄ライブ」パフォーマンスを披露していただき、大盛況に終わりました。

浜子唄ライブ(写真提供:玉野みなと芸術フェスタ実行委員会)

活動初期の2003~2006年は、現代アートを通して玉野市を誰もが何度でも来たくなる、魅力ある夢とロマンに満ちたまちにしていくことが目的でしたが、2007年には、歴史文化を融合した活動に発展したんです。一つの転機でした。

―現在は、5つの団体とともに活動を続けているそうですね。

斉藤:持ち株会社のホールディングスのようなイメージですよね。TAMAFES実行委員会が母体としてあって、実際に活動しているのは各団体です。現在、玉野しおさい狂言会、明神鼻(みょうじんばな)の小屋実行委員会、こども芸術アプローチ実行委員会、リボンの会、タマノクルーズ実行委員会の5団体があります。

玉野しおさい狂言会は、2007年に山田地区で開催したパネル座談会「アートタウン山田~塩・まち・唄」をきっかけに生まれたんですよ。初めは「松風」という能の演目が塩にまつわる話だと伺い、京都まで観に行ったのですが、能の幕間(まくあい)で観た狂言に興味が湧きましてね。後に、狂言には塩を題材とした演目がないということが分かり、創作狂言を創ることにしました。

2009年には、初めての創作狂言を無事お披露目でき、いい経験をしたなと思います。私も舞台に立ったんですよ。玉野しおさい狂言会では、演者としても活動を続けています。

創作狂言「野﨑武左衛門」(写真提供:玉野みなと芸術フェスタ実行委員会)

あとは活動を続けながら、関わってくださった方たちからの「こんなことやりたい」という提案から、新しい団体が派生していったんです。それぞれの団体で、やりたい人がやりたいことを自ら続けてくれています。嬉しい流れだなと思っています。

活動を重ねる度に改善し、気付けば20年

―なぜ福武教育文化振興財団の助成を受けたのですか?

斉藤:TAMAFES実行委員会として活動を継続させるために申請しました。色々と助成を受けられるところを調べるなかで、福武さんの存在を知りました。

教育文化に特化した助成制度であり、私たちの活動理念に合致すると思い、申請しました。2007年が最初に助成を受けた年。2009年には、アートシティ玉野の実現を目指したいとして、その年から始まった3か年継続助成に採択されました。

5団体それぞれで助成をいただいたこともあり、随所で活動を支えていただき、大変ありがたいです。2022年には久しぶりにTAMAFES実行委員会として助成を受け、20年の活動を振り返る「TAMAFES ・20年の歩み展」を開催することができました。

「TAMAFES・20年の歩み展」で行ったギャラリートーク(写真提供:玉野みなと芸術フェスタ実行委員会)

―当財団の助成を受けてよかったことは何ですか?

斉藤:福武さんからの助成金をイベント開催費の一部にして、活動を続けられたことです。続けられたことで、成功事例を他のエリアに反映させることができました。私たちの活動目的に合った、歴史文化を融合したイベントを開催できるようになってきたと思っています。

例えば、2009年にはメイン会場を山田から宇野港エリアに戻し、活動を再スタートさせました。山田地区に倣って、歴史や文化を調査し地域の人々と連携して地域の魅力を発掘する取り組みを、竣工100年を迎えた宇野港エリアでもやりたいと考えたからです。

この年、歴史文化の調査のために「宇野・築港まちづくり講座」を開設したり、築港商店街を中心に「宇野港ものがたり」というイベントを行ったり、活動の幅を広げました。商店街には閉店した店も増えていたなか、一時的ではありましたが賑わいと明るさを取り戻し、アートによるまちづくりと活性化の可能性を確認できたと思っています。

活動を続ければ続けるほど、私たちの思いや取り組みが「点」から「面」に広がっていくのを感じています。福武さんにはいつも活動を支えていただき、見守っていただいています。

―今後の目標を教えてください。

斉藤:TAMAFES実行委員会で実行委員長を務めてきた一つのモチベーションとして、玉野市が「文化で潤う芸術のまち」だと多くの人が思えるような場所になったらいいなと思っているんです。

現在はTAMAFESに所属する団体が増えていて、とても頼もしいなと思います。自分一人でできることには限りがありますから。

仮に私が実行委員長を退く時が来ても、それぞれの活動を継続していって、今始めているたくさんの活動が花を咲かせてくれたらと願っています。

おわりに

右:和田広子財団職員

宇野港周辺は瀬戸内国際芸術祭の会場になっていることもあり、芸術祭を皮切りに文化芸術活動が始まったのだと思っていましたが、実際には違いました。芸術祭開催の何年も前から市民を中心とした活動があり、取材を通して玉野市に根付く文化の深さを感じました。

また現代アートの視点である、文化の掘り起こしや継承に若手アーティストが加わっているのが印象的です。20年間で関わる人が増え、人の数だけ視点が増え、その結果として文化が継承されてきたのかなと想像します。まだまだ眠っている、玉野市の魅力があるのかもしれません。私自身も玉野市をもっと知り、その魅力を発信していけるような人になりたいと感じました。

玉野みなと芸術フェスタ実行委員会
玉野市宇野1丁目7‐3
問合せ先
090-5260-9057
asai10@lime.ocn.ne.jp
Webサイト
https://www.facebook.com/tamanominartfest