福武教育文化振興財団

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財団と人

#15 フォーラム Vol.6 トークセッション

2017.01.14

国や地域、性や世代を超えて
「文化」の持つ力が発揮される時代へ

2017年1月14日にJunko Futake Hallで開催された 福武教育文化振興財団30周年記念フォーラム「ここに生きる、ここで創るvol.6―地域にこそ在る最先端」での近藤誠一氏、平田オリザ氏、中島諒人氏3名によるトークセッションの内容をご紹介します。

和田 進行を務めさせていただきます和田です。よろしくお願いいたします。このフォーラムでは、皆様お一人おひとりが心に残るキーワード、または今後のヒントを持ち帰っていただければと思っています。
改めてそれぞれのプレゼンテーションを聞いた感想やご質問、また気になったキーワードなどがございましたら教えていただければと思います。

今の私たちは「自然」から学べなくなっている…中島

中島 まずは近藤さんのお話について。特にクリエイティブな活動をする人、あるいはNPOの活動、価値創造型の活動をする人間にとって、近藤さんが示してくださったような時代認識というのがやはり必要だということを思いました。私は鳥取県の教育委員会の委員長を務めていて、去年の夏休みに教員を対象にした研修をしました。そのときに「なぜ、今、文科省の指導要領の中で協働的な価値創造ということが重要だと言われていると思いますか」と質問しました。みなさん遠慮されていたのかもしれないですが、誰からも答えがありませんでした。先生にそういう時代認識が全くないところで、協働的な価値創造の話をしても意味がわかってもらえないと感じました。
NPOに期待されている役割は、ややもすると、行政の仕事の安価な担い手になってしまいがちです。が、今までとは違う視点で世の中を見て、社会の新しい可能性、発展させなければいけない部分を伸ばしていくということが非常に重要な役割だと思います。そのためには文明史観のようなものが必要です。近藤さんのお話から、なるほど「自然」なんだなということを思いました。
しかし、残念ながら今の私たちは「自然」から学べなくなっているといます。自然から多くのことが得られるのだけれども、地方生活においても、むしろ地方生活こそずっと車で動いているものだから、自然から切り離されてるところもあって、そういう自然との関係をどういうふうに補完していくか、代替していくかが極めて大きい問題だと感じました。
平田さんのお話ですが、まずは平田さんがPowerPointを使って説明されるというのは初めて見ました、最近はああいうスタイルなんですね。それで、劇作家なのに何でこんなにいろんなことを知っているのかなと思いました。でも逆に演劇をするということは、こういう社会的な現象というのを、平田さんがされるように分析し、それを批判的な形でとらえ、何らかの形でアウトプットしていくということなんだと思いました。変わった劇作家だなとも思いつつ、それこそが演劇人のあり方なのだと思いました。
平田さんにお聞きしたいと思ったのは、先ほどの試験のことです。大きなレゴを作るとか、討論劇を作るとか、非常にユニークな内容ですが、どのように評価していくのかということです。学校現場でも表現系の活動が非常に多くなっていますし、そういうことに対してどう評価していくんだろうということについてお聞きしたいです。

平田 評価はユニークな発想があったかどうか、タイムキープをちゃんとしていたかどうか、地道な作業をいとわないとかなど8項目ぐらいを、10点満点で、3人ぐらいの教員がつきっきりで見ます。今普通AO入試というのは小論文と面接です。僕は四国学院大学以外の入試改革のお手伝いもしています。「自分は演劇なんかやったことないから評価ができません」とみんな必ず最初に言いますが、終わった後はほぼすべての教員がこの試験の方が生徒の本質がわかると言います。
面接ではわからないのです。高校側は本当にすごい準備をしてきます。それにちょっと揺さぶりをかけようとして変な質問をすると圧迫面接といって訴えられてしまう。私立大学は訴えられただけでアウトですから。わかりやすい例で言うと、その日の朝ご飯は何を食べてきたか聞いたらダメです。家庭環境がわかる質問をしたらいけないことになっています。どんな質問をしたらいけないか、マニュアルが全部配られます。
ところがこの方法だと、午前中に劇を作ったり集団作業をやって、午後に今までの面接と区別してインタビュー、口頭試問と言ってますが、口頭試問をします。、そうすると午前中の内容についてどう考えたか、誰の意見が一番参考になったか、あと20分あったらどうしたかったとかなど、いろんなことが聞けます。そうすると準備ができません。準備ができない試験にすることが大事です。そうすると一生懸命答えます。「こういうの苦手だったんです」とか、「いい仲間と出会えてよかった」とか、頑張ってしゃべるわけです。その間に普通の質問もします。「わかりました。では我が校への志望の動機を聞かせてください」と。すると「急に御校は・・・」みたいな。お前そこ準備してきただろうと。18歳ですから、それもかわいくていいのですけどね。
いろんな多角的な見方ができるということで、大阪大学の大学院でやってるのはもっと長い時間かけて、集団作業と個別の作業・・・近藤さんが先程おっしゃっていた右脳を使うものと左脳を使う作業を交互にさせて、それでも論理的に話せるかどうかを見ます。泊りがけでやる試験も作ったことがあります。夜中までの作業でも人に優しくできるかとかを見るわけです。リーダーシップとかがすごくわかります。評価はそういうふうにしています。

中島 採点基準が人によって違うという話にはならないですか。

平田 3人の試験官は、だいたいみな同じ結果になります。

中島 私は教育委員を務めている関係で、どうやって優秀な人材を集めるか、ということに取り組んでいます。
例えば鳥取県の教員の給与は東京都と比べて全然安い。しかも東京都の方が人材不足で入りやすいということで、そちらに人材が流れがちです。じゃあ鳥取県は何で勝負するのかと考えると「こういうユニークな教育をやっています」ということです。そのことを一番わかりやすく語るとすると、試験がユニークだというふうにできないかと思っています。
昨年7月の試験現場を少し見てみました。集団討議があって、何やってるのと思ってみたら、その場できわめて一般的なテーマが出題されて、みんなが用意してきた答えをただしゃべる。これでは何もわからない。だから今平田さんが実践されているようなことをうまい形で取り入れていくことはできないかと考えています。

市民の対話の場所として劇場は機能している…平田

平田 奈義町の採用試験でいうと、奈義町の場合、小さな役場なので、幼稚園と保育園の職員さんと一般職員が一緒に試験を受けます。例えばこの間出した問題は、「桃太郎か浦島太郎を現代風にアレンジして幼稚園の年長組対象に紙芝居を作りなさい。結末がそのままでいいか、昔のままでいいかをきちんと議論しなさい」という内容でした。そうすると、幼稚園、保育園の先生方の意見をちゃんと聞ける一般職員でないと受からない試験になります。社会的弱者の立場を理解できるとか、異なる価値観、異なる職種の人の意見をちゃんとわかるような人でないと、その試験に受かりません。
そういう制度設計をどうやって作っていくかというときに、私たちがやっている演劇とか、もう少し広い意味でフィクションの力のようなものが多少必要だと思います。現場ではいろんな意見が出てきて、それをどうするか、一長一短ある中でどうするかの方が大事です。そういうフィクション性を入れていくときは、演劇的な手法というのは試験でも役に立つということです。

和田 その採用試験で合格された方はいらっしゃるんですか?

平田 僕は公平性を保つために制度設計とかしますが、採用にはかかわらないんです。

和田 平田オリザさんからのご感想をお願いします。

平田 お二人の話に2点共通点があると思います。中島さんも言われた、今社会が抱えている問題について考える題材を与えるというのが劇場の役割です。
僕は去年の今頃、ハンブルグにいてオペラを作っていました。ハンブルグ州立歌劇場はドイツで4番目に古いオペラハウスです。題材は東日本大震災、できれば福島のことを題材にしたオペラを作ってくれと言われてました。細川俊夫作曲でそれについての作品を書きました。去年の秋はフェスティバル・ドートンヌ、フランス最大の芸術祭に呼ばれて、そこでは『ソウル市民』、日本の植民地支配についての作品を上演しました。ヨーロッパの最大の課題の一つは移民難民の問題です。アジアのアーティストが植民地主義、あるいはポストコロニアリズムについてどう考えるかということを見せるということは、劇場や演劇祭の使命だと、少なくとも大陸ヨーロッパでは考えられてます。
要するにここがちょっと難しいところですが、答えを与えるのが仕事ではなくて、市民の対話の場所として劇場は機能しています。日本は答えを与えるのが演劇の役割と思われているので逆に行政はひいてしまいます。偏ったイデオロギーになっていると。そうではなくて、私たちの仕事は右だろうが左だろうがかまわないのです。私たちアーティストは今の世界をこういうふうに見ているのですよ、今の世界がこうなったのはこういうことが原因ではないですかと、その素材を与えるのが演劇です。別に新作でなくてもいいのです。例えば移民難民の問題を考えるときに、『トロイアの女』を上演して2500年前のギリシャ人は異文化、異文化との接触、侵略をどう考えたかということを考える。それが劇場の役割です。そういう劇場についての認識が育っていけばいいなということだと思います。
そのことと今の教育の問題はつながっていて、ちょっと誤解を与えやすい言い方かもしれませんが、フランスでよく言われるのが、だいたい小学校の教員とか図書館スタッフレベルのインテリジェンスを持った人たちは、月に1回劇場に行くと言われています。そうしないと、恥ずかしいというか、月曜日に職場で週末に何をしたかが問われる社会です。パチンコとかしてると出世できない社会です、フランスにはパチンコないですが。
フランスの地方都市ブレストというブルターニュ半島の一番先端にある人口15万人ぐらいの佐世保のような軍港のある町に滞在して制作していたときに、パリから『ゴドーを待ちながら』が来ました。『ゴドーを待ちながら』に8ステージで5千人はいります。どんなに面白くやっても『ゴドーを待ちながら』です。ということは15万人のうちの5千人のクラスは、毎月1回は演劇を見ていることになります。その層というのが大事で、日本はその層さえ危うくなっています。僕は日本は世界で最も安定した中間層を持った国だと思っているので、ここがもうちょっと、特に中高年の男性が劇場に通えるような習慣、演劇だけじゃなくていいのですが、音楽でも美術でもいいので、そういうことを日常的に習慣化していくことが、回り道のように見えて一番日本を安定させる方法ではないかなと思います。
もう一つ、近藤さんのお話で、私たち芸術家にとって、ありがたいなと思ったのは、不条理に向き合うということをきちんと言っていただいたことです。芸術の一番の仕事は不条理に向き合うことだと私も思っています。僕はフランスでフランスの子ども向けに『銀河鉄道の夜』を作りましたが、フランスでは宮沢賢治を知らないので、僕はテーマを絞りました。友人の死を乗り越える男の子の物語に再構成したのですが、友達の死を受け入れる、他者の死という不条理を受け入れるということは宇宙を1周するぐらい時間のかかることだというお話に再構成しました。ちょうどそのフランスでの上演中に東日本大震災があって、セリフの中に「ジョバンニ、髪が濡れてるよ」というのがあるので、すごく意味自体が変わってしまいました。フランスでもたくさん上演会場で寄付が集まって、すごく印象に残る公演になりました。
2013年の夏に高校演劇の審査員をしました。カフカを扱った高校とか、不条理劇がものすごく多かったのです。今でも東北の高校演劇は不条理劇が非常に多いです。これは非常にはっきりしていて、今回の東日本大震災は特に津波の被害が大きかったので、生き残った人と亡くなった人を区別する境目が何もない震災になりました。がんばったから生き残ったわけではないのです。子どもたちは学校単位で生き残ったけれども、亡くなられたのは港に働いていた元気な方だったり、逃げ遅れたお年寄りだったり。
カフカも宮沢賢治も同世代の人です。カフカは宮沢賢治と似ていて、生前は全然評価されなくて、死後に評価されて、しかも今も評価が上がっている珍しい作家です。戦後、第2次世界大戦後のサルトルとかレヴィナスとかユダヤ系の哲学者たち、文学者たちがカフカを一番評価しました。1944年、1945年の時点で、ユダヤ人にとって生き残った理由は何もなかった。すべてのユダヤ人が、本当に看守の気分次第で労働に行かされるか、ガス室に行かされるか決定しました。不条理というのは、私たちの正義の根拠がないということです。私たち人間の生きている理由は何もないということです。それを受け入れてニヒリズムに走らずに、どうにかこの世の中を良くしていったり、安定していったりしようというときに、いったんこの不条理を受け入れるというのが芸術の最も大きな役割と僕は思っています。特に今の世の中では、それが一番重要な役割と思っています。そのことをきちんとご指摘いただいのは大変ありがたかったと思っています。

近藤 まだ長官のときでしたが、沖縄に出張したときに、講演後に受けた質問の中で、半分以上が文化庁はもっとちゃんと沖縄を支援してくれ、支援の予算が足りないというお叱りでした。その時ふと思いついて、「皆さんの中で過去1年の間に組踊りとか琉球舞踊を見た人いますか」と聞いたら、ちらほらしかいませんでした。「これでは文化庁も支援できません。皆さんの地元の芸能ですよね。地元の芸能というものは、それを育て、守ってきた皆さんがサポートしてはじめて生きてくる。地元に根付いているからこそなんとか存続させよう、皆さんの期待に応えようとして政府も国民の税金を使うのです」と言いました。そのときに比べると、皆さんほとんど岡山県の方だと思いますが、皆さんの意識は日本の平均に比べてどうでしょうか。今日来ている方々は高い方で、問題はこういうところに来られない方々の文化のレベルですね。

和田 ご感想などを。

不条理にもちゃんと向き合わないと…近藤

近藤 中島さん、平田さんはお二人とも存じ上げていますが、演劇をやる方は社会を深く見ているし、人間を深く見ています。しかも現代の問題、冒頭で堅苦しく申し上げたように政治経済の論理で、つまり合理性や効率性の論理で仕切られている社会の問題点をくっきりと抜き出しています。それをどうやって一般の人に気付いてもらうかが重要です。その努力を教育の段階から、あるいは家庭や社会において進めていく上で、その手段としての演劇がいかに力があるかを示していただいたと思います。
私も子どもの頃、ほとんど演劇は見なかったし、戦後しばらくは、演劇は反政府の怪しげな連中が地下室で煙草を吸いながら何かやってる、という否定的なイメージがありました。それを私も何となく受け継いでいて、「演劇なんて」という気持ちがあったのですが、時代ごとに変わってきて、特に目が開いたのは国際機関に勤めてパリにいるときです。いろいろ迷ったのですが、娘をパリにある英国学校、ブリティッシュスクールに入学させました。イギリスの小学校中学校の教育は素晴らしかったです。中でも歴史教育と英語教育のレベルが高いこと、3つ目として演劇のウェートが非常に高いことに驚きました。娘は初め、演劇は子供会でちょっと劇をやる程度のものと思っていました。しかし実際は授業の中でコミュニケーションなどいろいろ考えさせるのです。正解はないような世界でどうやって相手とコミュニケートして自分の考えを伝えるのか、実際の人生ではないので、いろんな新しい課題を与えて、それにどうやって対応するかというのを毎週のようにやらせます。演劇というのは教育の中でとっても大事だなと思いました。しかも社会の現状と本来あるべき姿の間をさまようこともさせます。そういう意味で演劇の力はすばらしいと、アート全般に言えることですが、改めて感じました。
質問というか、議論でピックアップしてもらえればと思うことがあります。これからグローバル化がどんどん進んでいきます。IT、AI、IOTなどいろいろなローマ字が飛び交って世の中はどんどん合理主義と効率主義の方向に行ってしまう。それはおかしいと思っても抗えない、そういう中でどうやって不条理というものにしっかり立ち向かうのか。合理性も大事だけど、不条理にもちゃんと向き合わないといけないということをどう伝えていくのか。社会を運営している政治家、企業のトップクラスの方々にどうやって伝えていったらいいのか。演劇その他の芸術がやっていることが、どのようにして日本社会全体の力になっていくんだろうか、ずっと疑問に思ってきました。意識は少しずつ高まってはきたけれど、まだ世界全体を動かすには至りません。ますますグローバル化というライバル、IT化というライバルが強くなっていく中で、どうやって合理主義を超えた発想の重要性を伝えていくべきかという問題をずっと抱えてまして、それに対するヒントをいただければと思います。特に先ほどの平田さんの素晴らしいお話の中で、入試のテストで、1日かけるとおっしゃいました。結局、評価が一致するということでしたが、どういう課題を問題として出すのかということが難しいと思います。平凡な質問だとなかなかいい評価ができないし。平田さんみたいな、課題を作る人がたくさんいないと、なかなかこのシステムはまわっていかないのではと思っています。

中島 今のグローバル化の圧力の中で社会がどのように健康に発展していけるかということですよね。これは簡単なことではないと思います。私が可能性を感じているのは、よく言われる中間団体、中間集団です。国家と小さい個人、圧倒的な強者とアリのような存在の間にある、普段の仕事の関係とは違うちょっとずれた所での新しいつながりです。私の理想ですが、芸術、ある表現活動が好きな集まりでもいいのですが、そういう人間関係が現在の社会状況の中で新しい中間集団となって、みんなでいろんな課題を共有し、戦っていこうというような一つの新しいユニットになっていくというのは、僕は可能性があると思っています。

文化というのは多様性理解を最も有効にできる手段だと

平田 グローバル化は避けられないと思います。そこを「絶対反対!」みたいにやっても無理だし、現実的ではない。子どもたち一人ひとりをきちんと見て、その子にとってのグローバル化は何なのかということを個別に考えてあげなくてはいけない。
グローバル、グローバルと言っていますが、英語でディベートをやるような教育をして、城崎温泉の御曹司たちが観光客と英語でディベートしても困ります。豊岡市で必要なのは、おもてなしの英語をちゃんと学ぶことです。
少子化の時代を迎えているわけですから、きめ細かい授業が本当はできる体制にあります。霞が関、虎の門の論理で一律にグローバル化に向けての教育ではなくて、本当に一人ひとりの子どもにとってのグローバルって何なんだろうということを考えていくことが大事だと思います。
近藤さんが文化というのは地方で進めた方がいい、国家単位ではあまり向いてないとお話されましたが、教育は複雑なところがあって、近代国家を形成する過程では、教育というのは非常に国家で一丸となるものを目指します。特に私の専門は国語教育ですが、国語教育は象徴的で、近代国家の形成過程では国語の統一というのは必ず起こります。特に日本はそれを急く必要がありました。これは井上ひさしさんの『国語元年』という名作戯曲があるのですが、要するに薩摩の将校の命令を津軽の兵隊が聞き取れなかったら軍隊が負けてしまうので、ものすごい速さで国語を統一していったのです。ところがある段階になると生物多様性と一緒で、今度は共同体の中にいろんな人がいた方がいいということになる。中島さんの話にあったように、いろんな個性があった方が持続可能な社会になります。成長期には一丸となった方がいいが、安定期に入るといろんな価値観を持った人がいた方が、面倒くさいけれども最終的には持続可能な社会になるということが、多文化共生社会の原理です。
欧米が何でもいいとは思わないのですが、ヨーロッパの国語教育の流れはそういうふうになっていて、言語規範を学ぶというより、言語の多様性とかコミュニケーションの多様性を学ぶ方向になっています。その舵を切るのが日本は明らかに遅れています。ただ、この点も難しくて、日本はすごく暮らしやすくてのんびりしていて、そんなに異文化がたくさんあるわけではないので、今すぐそれをやらなければいけない状況でないことも現実です。
この現実を受け入れないとすごく現実離れした教育政策になってしまいます。ヨーロッパは、アラブの春があると2日か3日後にはボートで難民が押し寄せて来る地理的状況にありますが、日本はそうでもない。ただし、30年後もこのままということはないと思います。そのときにこんなに同質性の強い民族が、新しい環境に順応していけるかという方が問題です。たとえば福島から避難した人を、あのようにいじめるような社会で、移民や難民がヨーロッパのように来た時に大丈夫なのか考えないといけません。逆に言うと日本は東シナ海という荒い海と日本語の2つの障壁を持っているので、移民難民が急に流入してくるようなことはありません。これは本当に天の恵みだと思います。しかし天の恵みはあと30年ぐらいなのです。この30年の間にどうやって日本社会が国際社会に対して少しずつ無理のない形でゆっくり開いていけるかどうかということが課題になってきます。そのときに文化政策と教育政策を一体化させることができるか、要するに文化というのは多様性理解を最も有効にできる手段だと思っているので、それができるかどうかが課題だと思います。

近藤 今の点に関連しますが、文化の多様性、共存ということをずっと唱えてきたヨーロッパで、最近、人種偏見を持って、彼らを追い出すことを唱える極右政党が力を増しています。そこをどう見たらいいのでしょうか。人間はやはり最後は自分がかわいいし、自分の家族がかわいいし、自分の職が、経済が大事だし、それが満たされて初めてゆとりが出てきます。そうきれいごとばかりにはいかないと思います。そこのところをしっかり守らないといけないし、そうなると、これだけ2千年3千年の間、統一に近い社会、民族で生きてきた日本は、そう簡単に変われるかなと、若干悲観的です。

平田 まさにきれいごとではないので、本当に大変だと思います。たとえば豊岡市、城崎はどうしてるかと言うと、城崎温泉は今、観光客が、インバウンドがものすごい勢いで増えてきています。小さな旅館の集合体なので英語が話せる従業員を雇いきれません。人種偏見とかじゃなくて、海外向けのサイトを閉じたりしています。お断りしている旅館も多いです。ものすごい人手不足、景気はいいのに人手不足。現実に無理なんです。豊岡市としてどうすることを考えたかというと、僕のお付き合いのあるカナダのビクトリア大学の日本語学科のサマースクールを誘致してきて、日本語のできる上級の学生たちに去年は2週間、今年は20日間ぐらい滞在してもらいます。ホームステイもするが、旅館の就業体験などもしてもらって、そこで気に入ってもらったら、インターンに来てもらって、さらにそこでマッチングができたら下働きではなくて、幹部候補生として採用していきます。
カナダの大学には4カ月のインターン制度があるので、旅館組合はインターンにお金を払うと言っています。また、日本語がペラペラのカナダ人で、カナダですからフランス語も多少できるし、中国からの留学生も多いので、中国語、日本語、英語、フランス語とできるわけです。彼らは日本語を学んでいるくらいだから日本大好きなので、これはもううってつけの人材です。そういうふうに、どういう人をどういうふうに入れていくかということを現実的に考えていかないといけない。そうでないと、「絶対に入れない」という国家主義的なところと、「完全に入れろ」みたいな人権派とall or nothing の議論になってしまいます。そうではない余裕が今の日本にはまだあるから、そのときにそういう判断、現実的な政策ができるかどうかだと思います。

中島 異文化共生でいうと、ヨーロッパのように移民がじゃんじゃん入って来てという状況は、日本ではやはりそんなにすぐは生まれないかなと思います。ただ、我々の日常生活の中にそういう問題が本当にないのかというとどうでしょう。例えば中国、韓国との関係で、これだけ国民感情が悪化することが起こると、ネット上に、こんなことを平気で書ける人がいるのか?っていうくらいの言葉が並びます。このようなことを私たちが成熟した形で乗り越えていけるのかというのは、他人事ではないことだと思います。

平田 たとえば、今、秋篠宮様のご長男が通っていらっしゃるお茶の水附属小学校は、ものすごくとんがった授業をする小学校の一つで、「市民」とか「哲学」という授業が小学校であります。小学校6年生ぐらいになると、日韓併合の歴史を学んで、日本人と韓国人とそれぞれの立場に立って劇を作るといった授業を普通にやっています。将来天皇になる人がそういう授業を受けているので、私は楽しみにしてます。そういうことは学校の授業の中で十分可能だし、演劇は他者理解に役に立つと思います。だからそういうことをきちんと入れていくのがこれから非常に重要だと思います。

中島 演劇のいいところは、言葉でやりとりをするということと、人の体に触れるということです。先程、ご紹介したじゆう劇場とは、3年目、4年目のお付き合いですが、僕も始めは障害のある人に触れることができませんでした。遠慮というかなんとなく抵抗というか、何か壁があった。障害者同士も同じです。でも演劇というのは、必ず体の接触があります。プロ同士だと本当に押したり殴ったりというのでなくて、互いの力の関係で、ちょっとした呼吸の共有のようなことで、かなり荒っぽい場面も作れます。じゆう劇場の人たちは、最初はそういうことがみんなすごく苦手で、ちょっとしたときに、これはけがしたりするかもしれないという感じでした。触れ合うことをしないといけないなと思いました。少し練習をやってみると、実際に信頼関係、人間的なつながりが新しい回路を開くというのがすごくありました。これは演劇だけに限らないかもしれない、ダンスでもいいかもしれない、他者理解には体の重要性があると思います。すごく大事です。
近藤さんにお聞きしたいことがあります。先ほどお話しされたことの中で、地方に文化があって、そこのかけ算の中で新しい文化ができるということ、それは僕もまさにその通りだと思います。文化というのは、長い時間の中で、ある特定・ある限られた地域の人たちが、それなりにみんなが上手く生きていくための、生きる知恵の集積です。いろんな危険などを乗り越えながら、幸せに生きていくための知恵の集積としての文化がある。地域に固有の本来の文化に対して、国家という規模で捉えた時、多様なものを総称して日本の文化だと単純に言ってしまう。けれども、国家と文化は本当は簡単には結びつかない。しかし今、文化振興が言われるとき、経済産業省的なアニメとかソフトパワーと言われるようなものの中で、国家と文化、経済と文化のリンクがすごく強くなっていると思うのです。そこらは、どういう問題意識をお持ちなのでしょうか。

国は交流を奨励するという長期的視野に立った政策を

近藤 42年間政府にいて3年間文化庁長官をやった者の発言とは思えないかもしれませんが、国が文化政策を行うと、どうしても政治の安定に資するようにとか、国民の統一とか経済成長に役立たせる、例えば、クールジャパンを売って儲ける、もっと積極的に発信して儲けて、それを第3の矢に使うとか、そういう発想になってしまう。国の役割は国の防衛と安定と繁栄で、そのために文化を使うこと自体が悪いわけではありません。しかし、それだけではいけません。文化には本来文化自身が持つ力で自由に県境を越え、国境を越え、自由に行き来することで、文化が本来持っている非常にクリエイティブな、かつお互いを認め合い自分自身も認めるような、他人肯定的かつ自己肯定的な社会を形成する力があります。人々がそういう心を養い、異なるものへの心の門戸を開く上で文化には重要な役割があります。国は文化のこうした力が十分に発揮されるよう、内容に直接介入せず、その代わり、文化の流れの障害を除き、交流を奨励するという長期的視野に立った政策に徹するべきです。
そもそも日本文化とは何でしょう。日本国内で作られている、あるいは演じられている文化が日本文化なのでしょうか。私は社会に出てから半分くらい外国におりましたが、外国であっても、日本人が作って演じているというものが沢山あります。それもみな日本文化なのでしょうか。それとも国籍や場所には関係なく、日本文化が好きで、日本文化の真髄がわかって広めていく人が作っているものが日本文化なのか。そう考え出すとわからなくなります。
国と文化の関係は、最初に申し上げましたように、国の作り方の特殊性故に文化の特徴的な分布とは全然一致しません。アフリカは典型的です。民族とか言語とか文化とは全く無関係に、むしろ意図的にそれを分断するようにして、イギリスやフランスが植民地政策の下で国境を直線で引いてしまいました。国の政策はどうしても政治や経済に引っ張られるので、そこは否定はしないまでも、我々一人ひとりがそれを離れて、個人として本来の文化の持つ力が十分発揮されるよう、国籍を離れ、ジェンダーを離れ、時代の流れや世代を超えて、自由に行き来をしながら、そこでお互いに人生の問題や社会の問題を考えるということが重要で、それを可能にするのが文化の本来の力です。国はそれが自由に行われる環境を整えるのが役目だということをわかっていただきたいです。
こうしたことを全て政府にやれ、公立学校にやれと言われても難しいかもしれないですが、そこで劇団とか民間の文化団体、中間団体が極めて大事な役割を果たすので、これからそこの役割をどんどん増やしていかないといけないし、それを社会がサポートしていかなくてはいけないかなと思います。

和田 ありがとうございました。お時間が過ぎてしまいましたが、これでトークセッションを終わらせていただきます。

Profile

近藤 誠一

近藤誠一 KONDO Seiichi

1946年神奈川県生まれ。東京大学教養学部教養学科卒、東京大学大学院法学政治学研究科中退。1972年外務省入省。在米国日本大使館参事官、同公使、外務省経済局総務参事官などを経て、OECD(経済協力開発機構)事務次長、UNESCO(国連教育科学文化機関)日本政府代表部特命全権大使、駐デンマーク特命全権大使、2010年7月より2013年7月まで文化庁長官。退官後は、東京藝術大学客員教授、京都市芸術文化協会理事長、東京都交響楽団理事長、日本舞踊協会会長等を務める。レジョンドヌール・シュバリエ章(仏)、ダネブロー勲章大十字章(デンマーク)叙勲、アカデミア賞(全国日本学士会)、瑞宝重光章(平成28年度)受賞。

平田 オリザ

平田オリザ HIRATA Oriza

劇作家/演出家
城崎国際アートセンター芸術監督
こまばアゴラ劇場芸術総監督/青年団主宰
東京藝術大学COI研究推進機構特任教授
大阪大学客員教授/四国学院大学客員教授

1962年東京生まれ。国際基督教大学在学中の1982年に劇団「青年団」結成。「現代口語演劇理論」を提唱し1990年代以降の演劇に大きな影響を与える。1995年『東京ノート』で第39回岸田國士戯曲賞受賞。2003年日韓合同公演『その河をこえて、五月』で第2回朝日舞台芸術賞グランプリ受賞。2011年フランス国文化省より芸術文化勲章シュヴァリエ受勲。近年はフランスを中心とした各国との国際共同製作、大阪大学石黒研究室と共同でロボット・アンドロイド演劇プロジェクトなど先駆的な作品を多数上演。全国自治体との関わりも多岐にわたり、2016年度より岡山県奈義町の教育・文化のまちづくり監に任命される。

中島 諒人

中島諒人 NAKASHIMA Makoto

演出家/鳥の劇場芸術監督
鳥取大学非常勤講師
鳥取県教育委員
日本BeSeTo委員会代表
公益財団法人舞台芸術財団演劇人会議理事

1966年鳥取市生まれ。1990年東京大学法学部卒業。大学在学中より演劇活動を開始、卒業後東京を拠点に劇団を主宰。2004年から1年半、静岡県舞台芸術センターに所属。2006年より鳥取に活動拠点を移し、鳥の劇場をスタート。2000年以上の歴史を有する文化装置=演劇の本来の力を通じて、一般社会の中に演劇の居場所を作り、その素晴らしさ・必要性が広く認識されることを目指す。主な演出作品として「天使バビロンに来たる」(作:F.デュレンマット)、「白雪姫」(グリム童話より)。利賀演出家コンクール2003最優秀演出家賞、芸術選奨文部科学大臣新人賞(2009)、鳥取県文化功労賞(2015)などを受賞。