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財団と人

#1 杉浦慶侘さん | 写真作家

Posted:2015.03.20

今だけは、桜の下でわれを忘れて…
自然の力、美しさの前に「無力さ」を晒す

「春、死なむ」杉浦慶侘展の開催を翌日に控えた 3 月下旬、写真家・杉浦慶侘さんを同展の会場となるcifaka(シファカ=岡山市北区石関町)に訪ねた。窓の外の桜は、まだつぼみ。けれど、会場は展示された作品の淡い満開の桜色に包まれていた。(聞き手:山川隆之=2012年福武文化奨励賞

―― 淡く、きれいな桜ですね。

杉浦 そうですね。今回の展示は3つ柱があって、一つは、この作品のタイトルにもなっている「西行」という中世の歌人の和歌なんですよ。「願わくは花の下にて春死なむ」という、これは「私の願いがかなうならば、満開の桜の花の下で死にたい」という強烈な、何というか美しさと死という対極にあるものを詠っている。その歌が自分の中のどこかにあって、いざ写真を撮るときに、上下左右がひっくり返るような、陶酔するような感覚をイメージして作ったんです。

―― まさに、満開の桜で自分自身がそういう状態にあるということをイメージした?

杉浦 そうですね。もう一つ言うと、これは2011年春以降に撮っていて、やっぱり地震や津波を自然とするなら、ああいう人間の無力さを思い知らされた強烈な暴力とこの華やかで可憐な花とが、対極にありながら一つの自然なのだということがすごく衝撃でした。

―― あの震災の強大なエネルギーと人間の無力感、その一方では、自然の美しさというか無垢な美がある。

杉浦 本当に可憐な、ひらひら風になびく花なんだけれども、可憐であるがゆえに両極の差というのがすごいなと思いながら。最後の3つ目は農耕と桜の関係で、桜というと4月じゃないですか。農耕に携わっている人は、これから田植えが始まる。そうすると米がとれるということで、祝祭的なイメージがある。お花見というのは、それでみんなやるわけで。この作品の前に大黒天を置いています。豊穣の神ですから、米俵に乗っているし。(写真と)大黒天を1セットにして、祝祭的なイメージを出してみました。ここにはカフェでスペースがあって、外でみんな食べたり飲んだりするんですけれど、それを豊穣の神が見ているという。

―― なるほど。いわば神様が見守っている。

杉浦 見守っているという。その3つを今回の展示でからめてみたんです。

―― 全部で5点の作品。大きさでいうとどれくらいのサイズなんですか。

杉浦 B0(ビーゼロ)サイズ。ただ、4×5というカメラで撮っているので、フォーマットが必ずしもB0そのものじゃありません。これは横長だけれど、あれなんかはちょっと変形だと思うんですよね。

―― そういえば、微妙に横がちょっと短かったりする。写真展の案内状を見て、すごくすてきで凝ったつくりをしていますよね。ただ、杉浦さんが今まで撮られた写真のイメージと、僕が知っている限りでは、随分違いますよね。その辺はどう変化したのでしょう。

杉浦 桜の展示を4月にするという事で「お花見をしよう!」っていうのがあると思います。今僕らが乗り越えるべき問題って、たくさんありますよね。震災もあるし原発もあるし、周辺国とのやり取りもあるし、この国の未来はどうなるんだとか、少子化だとか年金がどうなるのかとか、たくさんの問題がある。
あるんだけれども、今はお花見を楽しもうよと。今だけは……。

―― この季節は、今だけは――。

杉浦 うん。そういう思考の一時停止というか、今はちょっと楽しもうよ、今だけは。そういう気持ちはすごくあったんですよ。逆にいうと、それだけ僕らがこれから乗り越えなければならないものがたくさんあるなと思って。

―― 押しつぶされてしまいそうな難題が多過ぎて、ちょっとここだけ思考停止をして、桜の下で少し憩えばという?

杉浦 そうそう。ここはカフェスペースもあるから、ちょっとお酒でも飲んでね。楽しくしましょうよと。一時一旦停止みたいな。どのみち僕らは、これからそういう問題と戦わなければならないんだから、今はちょっと、今だけは……という感じですね。

―― つかの間の、まさに祝祭でもあり、ということですよね。

杉浦 ハレというか、つかの間の。

―― それは、現実的な社会が、本当にちょっと厳しすぎる無理難題が多過ぎるという裏返しなんでしょうね。

杉浦 子どもでも分かりますよね。これからこの国は大変だぞというのは。

―― 日常僕らは何をしているわけじゃないけれど、そのことを考えるだけで、ちょっと気が重たくなる日が実際ありますものね。原発もそうですし、確かに集団的自衛権だとか、先日の川崎のような事件があったりとすると。

杉浦:そうですね。

―― ということは、今回の個展で写真を見に来てくれた人たちは、純粋に日本的な桜の美しさみたいなものを。

杉浦 委ねてね。

―― 委ねてほしいという。

杉浦 本当に。ここの会場からも桜が見えるので、そういう幸せな空間にしたいんですよ。
ここだけはという。

―― 桜をモチーフに写真家はたくさん撮ってきました。それはだれにでも相通じる日本の美の典型じゃないですか。それを今回杉浦さんがこういうかたちに撮ってみた。自分としてはどういう桜を撮りたいかみたいなものというのはありますか。

杉浦 構図とかそういうものを排除というか無視して。例えば、富士山の手前に桜があって、という構図があるでしょう。そういうものを今回は全く無視しました。だから、これなんかも本来逆なんですよ。180度。これなんかは裏焼きです。逆転しているんです。そういうふうに、西行みたいに自分が桜に酔っている感じを出したかったので、あえて前後左右がバラバラというか。

―― ちょっと自分が正常でない状態で桜の下で見たときに、ひょっとするとこんなふうに見えているのかも分からない。そういうことですか。

杉浦 そういうことです。カメラでずーっと寄っていくと、本当にボケボケで、自分が何を撮っているか分からないんですよ。現像してみて「ああ、写ってた」という感じで、これも写っているかどうかさえ分からないんだけれども、そういう狂った感じ、どこか酔った感じ。

―― 桜に酔っている……確かに。

杉浦 対象が何かさえ分からない。お酒飲んだりすると、花を見てもよく分からないという。

―― 桜の花びらの1枚1枚、1輪1輪を、どうしても撮ろうとするじゃないですか。

杉浦 そっちのほうがきれいに見えるしね。

―― 実際に焼き付けをして上がってきていかがでしたか?写真を撮る人は自分の持っていたイメージがそのままプリントされる、100%じゃないにしてもそれに近いものができるかどうかというのは、ものすごく大きい。その点で、今回のこの作品は自分のイメージに近い状態ですか。

杉浦 そうですね。酔った感じを出すぞというのはあったので。そうしないとほかの人との相対化ができない。僕が撮るのであれば、かなり日本の歴史に近づけて、昔からある日本人と桜というものの核を、時代を超えて現代まで持ってくるような。

―― それこそ1000年くらい昔の人たちが桜の下で思ったことと、1000年の時間を超えても似たようなことを感じたりするのかもしれないですよね。

杉浦 そもそも桜のソメイヨシノなんかは、クローンといいますからね。明治の頃から一本の木からずっと接ぎ木接ぎ木で。だから当時の桜と同じなんですよね。

―― なるほどね。これは僕たちが今まで見たことがない桜なのかも分からない。映像的にはすごくきれいですよね。

杉浦 そうですね。きれいと言っていただけたらいいですね。うれしいけど。

―― すべてフィルム?

杉浦 はい。だからこれなんかは、裏焼きができる。本当は逆なんです。だから、この花が本当はこっちにあるんですけど、逆に焼いちゃったり。これなんか天地がひっくり返っていますから。

―― 天地がひっくり返って?

杉浦 青空が見えてるでしょう。こっちが空なんですよ。

震災を経験し、芸術には何もできない、作れない…
だから、考えるんじゃなく、感じようと

杉浦 今までの僕のイメージとは全然違うんで、かなりリスクもあるんだけれども。

―― パッと一目見てイメージが変わったというか、そのへんの作風の変化というのは、今リスクがあると言われたけれど、それはあえてなんですか。

杉浦 そうですね。やっぱり僕は震災があって、現場に行ってみたときに、自分に何もできないというのをまざまざと感じたんですよ。自分の芸術には何もできることがないというのがその時に分かったので、ずっと何も作れなかったんですけれど、逆にそういう意味のあるものじゃなくて、意味がないというと変だけれど、今だけの、一旦停止の写真は作れるぞと思ったんです。無力感をすごく感じて作れなかったけど、今ならこういうものを作ってみんなに見ていただくことはできるぞという。

―― 例えば僕が知っている森の作品だとかをイメージしてこの作品を見ると、その違いというのが歴然とする。むしろ以前の作品のほうが、いわば暗さみたいな、神秘的な色彩が強いじゃないですか。それが、今回はちょっと明るさみたいなもの、希望というようなものを感じる……。

杉浦 そうですね。反動もあります。今まではずっと考えていて、考えて考えて考えて、自分は芸術というものについて考えることに価値があると思ってたんです。しかし、結局何もできなかった。そこでもうふっきれたというか。考えるんじゃなくて目の前の世界を五感で感じるんだというふうにシフトをしたと思います。もちろんさっきお話ししたように、3つの柱ではあるんだけれども、それを知らない人でも楽しめる。これまでと比べて間口はかなり広くなったなとは思うんですけどね。

―― 震災の悲惨な状況の中で芸術では何もできないみたいなところから、でもこういうかたちが芸術活動をしている人間としての一つの答えとして、こういう作品で出したいということなんですね。

杉浦 ですね。だから、願いがかなうなら、被災されたところとかにこれを持って行きたいですよね。

―― そこに希望だとか、もう1000年頑張る力を桜からもらえるかもしれないですよね。

杉浦:確かにね。もし向こうでこういう展示ができれば、みんなでお酒飲みながら花見を擬似的にもできたら楽しいだろうなと思っていて。本当に現状はとても大変なので、せめて一瞬だけでも明るい夢を見ようと。

―― その時代とのかかわりが、作品の中にいつも、例えば3.11以前に森を撮ったりしたときに、作品の中に反映してたわけ?

杉浦 はい、そうですね。今までは僕にとって、社会というのは戦うべき相手だったんですよ。けれども、いざああいう震災や事故が起こってみると、戦うべき社会がいかにハリボテにすぎなかったのかが分かったし、しかも、敵はいなかったということが分かったんですよ。ひょっとすると今まで原発なんかに対して無関心であり続けた自分が、実は悪の側なのかもしれない。そう考えていくと、もうどうしたらいいんだってことに。

―― どこに向かって言えばいいんだ、みたいな……

杉浦 そういうものの反動もあって、身近な環境に目を向けようと思い津山の鶴山公園で撮ったんですよ。

―― えっ、鶴山公園の桜なんですか。

杉浦 なるべく自分に近い環境の中から作ろうと……。

―― それは今の3.11以降の杉浦さんの戦い方……

杉浦 かもしれないですね。なんか自分の最も身近な所から最も美しいものを作らないとダメだろうと思って。

―― 身近なところ……なるほど。

杉浦 高価な物や特別な状況で作るのは、何か違うんですよね、今の自分によっては。

―― この桜は鶴山公園ということでいえば、今住んでいる津山で最もポピュラーな場所にある存在で、そこで撮ることの意味は、今おっしゃった「身近な所から」というところに。

杉浦 身近な所から、芸術的なものを抽出しないとダメだろうなと思って。

―― 今のお話は、たぶんこれ見に来た人は、杉浦さんの今の話を聞きながら見ると、全然見方が違うんじゃないかなと思うよね。

杉浦 こういう展示となると、どうしても突き放した感じになるんでね。

―― なかには、「自由にどうぞ。好きに見てください」というパターンもあるとは思うけど。

杉浦 今までは、今言ったようなことを皆に理解してほしかったんだけど、今回の展示に関しては、「わー、きれい」でいいんだという感じですね。それでもいい。だってお祭りだもん。祝おうよって感じ。この展示は今までとはちょっと心持ちが違うんですよね。

―― 昨年の春ですか、撮影したのは?

杉浦 2011年以降です。最初はこういうふうにピントがばちっと合ってるのを撮っていたんだけど、撮っているうちにだんだんぼやけてくるというか、酔っていく感じが。段々かちっとしていなくていいんじゃないかなと。

―― 仕事で、木を切っているじゃないですか。で、要するに岡山に帰ってきてから、木を切りながら撮り続けているわけで、木を切り続けることと作品を撮ることの関係性というのは何か。

杉浦 結局当たり前のことなんだけど、自然は僕らに快適なようにつくられてはいない。僕らの都合とあるがままの自然というのは、全然別物というか、快適性からはほど遠いんだろうなと。それは日々感じます。

―― そういう中で撮るものというのは、東京に居たころとやっぱり違ってきている感じですか。

杉浦 そうですね。向こうにいたころは、人間が自然をコントロールするというのはどっかでもう当然のものとしてあったんですよ。「だから自然がきれい」とかいう考え方ができたんですけど、今は「きれい」という考え方自体が人間の考えたフォーマットだから、そんなものからどんどんあふれ出ているものも自然なんじゃないのかなとか思っているし。

―― でも、きれいな自然を撮るよね。

杉浦 それは見る人のとらえ方でしょうね。

―― 自分としては、自然の美しさだけを撮ろうということではなくて、そういう逆の一面、自然の怖さだったり神秘だったりというものを描きたいわけだ。

杉浦 「美しい自然」という言葉自体が、もうおかしいと思っているんですよ、僕の中では今。自然というのはそういう人間の尺度をかなり超えているところにあるんではないかと思いますけどね。

―― そういう意味では、今回のこの写真展は、会場の選び方もそうだし、いつもエネルギーをすごく掛けているとは思うけど、杉浦さんの中ではすごくなんか一段と力が入っているのでは。

杉浦 どうですかね。今回は何かを伝えようというようりは、楽しもうというのが大きかったですね。お花見だしね。それにここはカフェもやっているので、食べたり飲んだりもできるし、なんか「今だけは楽しもう」っていう気持ちはすごくありましたね。

―― なるほどね。

杉浦 そういうボジティブなものが見る人に伝わればいいでしょうけれど。

―― 本当にたくさんの人に見てほしいですね。

杉浦 ぜひ。杉浦慶侘というものがなくても、この桜を見に来てほしいですね、お花見としてね。お団子もあるし。花より団子。きっと楽しいと思いますよ。食べながら歩いたりすると。

―― 今日は展覧会前のお忙しい時間に、ありがとうございました。

「春、死なむ」展示作品

Profile

杉浦 慶侘

杉浦 慶侘 SUGIURA Keita

1980年岡山県津山市生まれ。高校卒業後、都留文科大学(山梨県)へ進学。そこでかつて中平卓馬や森山大道が在籍していた『provoke』の写真表現に出会い、自身でも作品の制作を始める。大学卒業後、東京有明の広告写真スタジオ「ABCスタジオ」へ入社。商業写真の世界に触れながら、現代美術の世界に興味をもつ。2005年に東京のスタジオを退職し、帰郷。地元岡山で出版関係の仕事に就いた後、「GEISAI」での受賞をきっかけにアーティストとして活動を開始、国内外で精力的に活動を続ける新進気鋭の若手写真家である。

[主な受賞暦]

2008年 「GEISAI MUSEUM #2」ヴィクターピンチュック賞(東京ビックサイト/東京都江東区)
「GEISAI #11」銅賞受賞(東京ビックサイト/東京都江東区)
2009年 「I氏賞選考作品展」大賞(天神山文化プラザ/岡山県岡山市)
2010年 福武文化奨励賞」(福武文化財団/岡山県岡山市)

[個展]

2013年 「私の部屋」(勝山文化往来館ひしお/岡山県真庭市)
「GoodJob」(旧遷喬尋常小学校/岡山県真庭市)
2010年 「農村の意匠」(奈義町現代美術館/岡山県奈義町・京都万華鏡ミュージアム/京都府中京区)
「Daydream」(Max Protetch Gallery/アメリカニューヨーク)
「杉浦慶太展」(事画廊/岡山県岡山市)
「Inkjet」(CASHI/東京都中央区)
2009年 「森 - Dark Forest-」(CASHI/東京都中央区)
「Dark Forest - Keita Sugiura-」(Max Protetch Gallery/アメリカニューヨーク)
「ANA MEETS ARTS - 杉浦慶太-」(羽田空港ANAラウンジ/東京都大田区)
「Black Forest」(Keiko Gallery/アメリカボストン)
「灯-ともしび-」(天神山文化プラザ/岡山県岡山市)
2008年 「私は森を、美しいとは思わない。」(カフェうえのだん/岡山県真庭市)

山川隆之 YAMAKAWA Takayuki

編集者、吉備人出版代表。1955年岡山市生まれ。三重大学農学部卒業。地方紙記者を経て1995年に吉備人出版設立。『のれん越しに笑顔がのぞく-勝山・暮らしから始まるまちづくり』など「本づくりはまちづくり」を掲げ、これまでに約530点を出版。日本出版学会会員、岡山ペンクラブ会員、NPO法人アートファーム理事。=2012年度福武文化奨励賞受賞、2013年度岡山市文化奨励賞(学術部門)受賞。

シファ-カフェ ギャラリー cifa-cafe Gallery

岡山市北区石関町、石山公園に隣接し、岡山城、後楽園を臨むロケーションにあるカフェ・ギャラリー。さまざまなジャンルのアーティストやデザイナーの展示、発表の場所として利用されている。デザイン事務所cifka(シファカ)が運営。